活字遊戯 ~BL/黄昏シリーズ~ -1010ページ目

scene18

 玄関を出ると心地よい風が頬をなでた。庭の芝生が目に眩しい。都心にいることを忘れさせる、そんな佇(たたず)まいの屋敷だった。
 篠塚が車で家まで送るといってきた。瞬は辞退したが、「どうせ道場に顔を出すんだ」と、篠塚は言った。
「土日も道場に出ているんですか?」
「ああ」
 屋敷から十分ほど車を走らせた頃、篠塚が口を開いた。
「昨夜のことだが」
「はい」
 篠塚は、一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したように口をつぐんだ。
「篠塚さん?」
「一度しか言わないから……。嫌なことかも知れないが、聞いてくれ」
 瞬は、何事かと篠塚の横顔を見た。
「マケインのことなんだが、あんな事があると、その体験が引き金になってPTSDになることがある」
「PTSD?」
「心的外傷後ストレス障害……。阪神大震災からこっち、日本でも頻繁につかわれるようになった言葉だ」
「聞いたことがあります」
「症状は大きく三つにわけられる。フラッシュバック、不安や不眠、そして、回避症状……トラウマに関連したものを避けようとする行為だ」
「僕は、別に……」
「いいから、最後まできけ。去年、若いアメリカ人女性がオフィスでレイプされた。事件後、彼女は不眠やトラウマに悩まされ精神科医に足を運んだ。……だが、言いにくかったんだろう。暴行の事実を医者に告げなかった。結局、医者はPTSDの診断にたどりつけずに彼女を不眠症のパニック障害と診断した。間違った診断と間違った治療だ、よくなるはずもない。彼女は、そのうち自傷を繰り返すようになった」
「今は……」
「人格障害をひきおこして入院している」
「……知り合いだったんですか?」
 篠塚は、少し間をおいて、「俺の部下だった」と言った。
「アメリカはベトナム帰還兵のPTSD患者が多い。日本よりずっと研究がすすんでいるんだ。早期に適正な治療を受けるかどうかで完治する確率が左右される。いや、むしろカウンセリングのほうが早期の場合、有効かもしれないが」
「でも、僕は未遂でしたし……」
「未遂か、そうでないかは問題じゃない。心的外傷は個々人のストレスに起因するものなんだ」
「でも」
「瞬、おまえは大丈夫かも知れない。知れないが……、もし、少しでも思い当たる症状がでたら俺に教えてくれないか?」
「篠塚さんに?」
「いい医者を紹介できる」
「医者……?」
 信号が赤に変わった。交差点でブレーキをふむと、篠塚は瞬を覗き込むようにして、「約束してくれるか」と、訊いてきた。
「篠塚さんがニューヨークに帰ってしまった後でも?」
「後でもだ」
 ニューヨークにいる篠塚に連絡がとれる。それが嬉しかった。瞬が口をほころばせて肯くと、篠塚は安心したように表情をやわらげた。
 にわかに陽射しが強くなり、フロントガラス越しの射光に篠塚が目を細めた。あるいは、そのアメリカ人女性の事件そのものが篠塚のトラウマになっているのかも知れない。
 篠塚さんのこと、もっと知りたい……。
 信号が青に変わり、車が動きだした。
 瞬は篠塚の横顔から目をそむけると、なにを見るでもなく窓の外に視線をむけた。忽然として芽生えた、他者に対する強い欲求に、瞬は戸惑いをおぼえていた。



前のページへ | 次のページへ


星「黄昏はいつも優しくて」もくじへ


星「活字遊戯」トップへ



ブログランキング・にほんブログ村へ
バナーをポチっと、とっても励みになります星