姫と、さいよわのTO~プロローグ~(姫生誕&卒業イベント) | ワーログ

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ヲタ活日記、キモ創作物語がメイン。


「どうせまりな秋にはもういなくなっているから」


これは2年前の2014年、僕が初めて参加した"推し"(以下、姫)の生誕イベントを終えた約2ヵ月後、秋葉原モエファーレで行われた441のライブイベント打ち上げパーティーにて、姫が言い放った一言である。それを聞き、当時TOだったMはショックで涙ぐみ、僕も、もうあんなに楽しかった生誕祭は2度と出来ないのか、、、と、茫然自失としていた。

2014年、姫の生誕イベントは大盛況の内に終わったのである。姫は店内でドールエレメンツの「告白体操」を踊ったり、お客さんの顔に落書きをしたり、ヲタTでも無いTシャツに落書きをするなどやりたい放題の大はしゃぎだった。そんな、楽しかった生誕イベントが開催されることがもう2度と無いなどと想像することは、つらかった。


しかし、奇跡が起こったのかどうか分からないけれども、その年の秋に姫が辞めることは無く、どうやら次回2015年の生誕祭もやる気満々の様子だった。しかもそれは記念すべき20歳の生誕イベントだった。2014年12月、僕は姫からある役割を与えられた。それは大変に光栄なことだった。今度こそ本当に最後の生誕祭だと覚悟していた僕は、その任務に注力することを決心した。それ以外の部分に関してはTOだったMが取り組んでいた。


「わーさん、私のTシャツつくってね」


こういうお願いを推しから直にされることはとてもうれしかったので、何とかTシャツを完成させてのぞんだ20歳の生誕イベントは、史上最悪の生誕イベントになってしまった。なぜか僕も、気が狂ったのか深夜にJKコスをして登場するというサプライズを披露したものの、完全に無視される事態となってしまった。それ以外の詳しい内容はとてもこのブログで書けることではないため、もしどうしても知りたいという物好きな方がいらっしゃったら、441の後継店である「Twinkle Night Parade」で働くAりんという秋葉原一かわいいキャストに聞きにいってほしい。いないとは思うけど。。。

とにかく史上最悪の生誕イベントが最後の姫生誕になってしまったとして僕は酷く悲しみにくれたし、当時TOだったMも心が折れて他界してしまった。

その結果、なし崩し的に僕がTOになってしまった。はっきり言って、コミュ力が低くまともに会話を成立させることも困難なレベルだからヲタ人脈は皆無だし、都内で一人暮らしをしている手取り20万前後の冴えないサラリーマンに、例えばアイドルのリリイベでCDを100枚、200枚と予約できるような、あるいはメイドカフェでピンクのドンペリ、略してピンドンを注文できるような、そんな資金力は当然なかった。つまり僕は、最弱のTOだった。

世の中に蔓延るTOと呼ばれるヲタクたちが集まってTVチャ○ピオンTO選手権が開催されたら、中村ゆうじにあだ名を付けられることなくトーナメント戦から脱落していたに違いない。

などと考えながら、姫の出勤日には足繁く通っていたのだけれども、その内にだんだんと、もう1回だけ生誕祭が開催されるような雰囲気が外神田3丁目に漂い始めた。だって一向に辞める気配がないし、学校を卒業して就職するギリギリまでお店にとどまることを仄めかすような発言をするようになったから。



そして2015年のリベンジを果たすチャンスは、提供されることになった。



2015年の年末あたりから、姫が僕に生誕のはなしを持ちかけるようになってきた。あれがしたい、これがしたいと矢継早に姫の口をついて出てくる要望を1つ1つ僕はきいていた。


「ケーキは写真を大きくしてね!」
「風船はパープルじゃなかったらまりな切れるから!」
「メッセージカードはチェキがいいな!」
「ヲタクにプレゼント何買わせようかな」
「今回はね、ブロマイド出すか迷ってるの」


・・・年が明けて2016年のお正月、僕は今年の目標として姫生誕&卒業イベントを成功させることを宣言した。

しかし、ここだけのはなし、既に問題は発生していた。格好をつけて新年の抱負をブログに書いたこの太った髭の濃いおじさんは、お正月休みにいったい何かやったのか?やったことは、秋葉原のJK(風)リフレで20Kを消費したことだけだった。さすがに罪悪感に苛まれた僕は今回限りにしたけれども、この時点で2016年の姫生誕&卒業イベントは不安要素満載だった。。。



(続く)