阪神・淡路大震災から16年 | 杉田 水脈(すぎた みお)オフィシャルブログ

杉田 水脈(すぎた みお)オフィシャルブログ

衆議院議員「すぎた水脈(スギタミオ)」の公式ブログです。

阪神大震災から16年、鎮魂の朝に黙とう
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110117-00000116-yom-soci

昨日18回目の結婚記念日を迎えました。
Twitterやmixiでお祝いの言葉を頂いた皆さん、ありがとうございました。

そして、結婚記念日の次の日はいつもこの日がやってきます。

1995年1月17日 阪神・淡路大震災

当時吹田市の千里ニュータウンに住んでいました。
交通手段がないため主人のバイクで、職場まで送ってもらいました。
途中、国道171号線の伊丹市あたりがすごくガスくさくて、
「火が引火したら大爆発が起こるんじゃないか」ととても恐ろしく感じました。

職場についてまず言い渡されたこと。

「普段どおりの仕事をすること」

当時は職員の健康保険組合に配属されていました。
毎月20日にお給料を支払うため、17~18日ごろに「健康保険料の調定」という処理を行います。
「その処理を急げ!」と。

釈然としない私は、倒れたコンピューターを起こしながら、
「そんなことより、もっとやることがあるのではないか?」
と言うと、返ってきた答えは、
「職員だって被災している。お給料を支給することが一番優先される。」


「やっぱり納得できない!」
自分の職場を離れ、対策本部のあるフロアに行くとそこは大混乱していました。
そのまま、市民の方から絶え間なく入ってくる電話に応対する仕事に就きました。

家に帰る手段もないので、泊り込んで電話応対を続けました。
窓ガラスが割れ、風が吹き込んでくる庁舎はとても寒く、スキーウェアの上から毛布をかぶってもまだ震えていました。

夜中の2時ごろ。

「救援物資を持って○○市のえらいさんが来られた(どこの市かは忘れてしまいましたが、助役さんが来られました)ので、お茶汲みをするように。」
市長室に呼ばれてそう言われました。

「こんなときにお茶汲みって・・・。」と思いましたが、言われたとおりにしました。

今までこの話は書いたことがありませんでした。

阪神淡路大震災のとき、自治体職員は本当に不眠不休で一生懸命働きました。
前例もマニュアルもない中、その場その場で判断しながら。
その一方で、「?」と思うような「身内の論理」が優先された場面もやはりありました。

その後、3月の終わりに風邪で高熱を出すまで1日も休まず働きました。
そのころ、職員の超過勤務手当てのことが問題になり始めました。

神戸市を始め近隣の市が満額支給しない決定がなされる中、労働組合が強かった我が市は満額支給されたのでした。


「職員組合に負けました。」
本日もう一つの全国ニュース、阿久根市の前市長のコメントを聞きながら、少し複雑な思いがしました。