伍 | タイトルのないミステリー

タイトルのないミステリー

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 祖父は二十歳の時に還俗して元の姓の松浪庄五郎と名乗って、奈良屋の婿養子となった。祖父は女房殿に自分の思いを話した。

「わしはもっともっと高みを目指している。ただの商家の店主で終わるつもりはない。その為には沢山の財がいる。わしの夢の為にこの奈良屋の財を役立てたいと思っているが異存はあるか?」

祖父に惚れ切っていた女房殿は二つ返事で頷いた。さて女房殿の許可は出たが問題は舅殿だ。奈良屋の主、又兵衛が健在なので金を自由に動かす事が出来ない、どのような策を練るべきか、などと思っていたらその又兵衛が流行り病で急死した。なんとついている事よ、と小躍りしたのは言うまでもないだろう。これはもはや天が我に味方しているに違いないと祖父は益々野心を燃やした。そこに又兵衛が死んで家業の荏油販売権をめぐって山崎八幡宮との間にいざこざが生じた。だがそのいざこざこそが祖父にとっては好都合、祖父はそこに便乗した。その交渉に当たり、奈良屋を山崎屋と改名して祖父が当主になることで解決した。まあ、祖父にとっては屋号などどうでも良かったのだ。八幡宮の方は山崎の名が使われるならと納得した。祖父は又兵衛の身内に金子を持たせて他の地にやり、自分は妻と2人、奈良屋の店の実権を握った。正に祖父の初めの思惑通りの運びとなった。200人近い使用人が祖父の思いのままに動いた。

 奈良屋には先代の又兵衛が乞食のような生活をしていた男を引き上げて目を掛けていた仙蔵という男がいた。奈良屋に大層な恩義を感じており、仙台亡き後に八幡宮との揉め事を収めた祖父にも相当に感謝していた。人に恩義を感じる男は大抵裏切らぬ。先代の頃から、この男は実直で決して裏切らない信用できる男だと思っていた。なのでこの仙蔵を総番頭にした。思った通り仙蔵はここまで引き上げてくれた祖父に感謝して感涙した。祖父はこの男に店を任せこっそりと槍の練習を始めた。いくらか知恵と金があっても戦場(いくさば)でやられてしまったら元も子もない。知略だけではなく、武力も必要な時代、弱い者は上には立てぬ。その為には日頃の鍛錬は欠かせない。いつ寝首をかかれるか、いつ後ろから襲われるか分からない時代なのだから。

槍の矛先に長い釘を打ち込んで構え、一文銭の穴を的にして突く、練習しているうちに縁に触れずに穴が付けるようになった。妻、私から言えば祖母に当たる人はそんな祖父を嬉しそうに見ていたそうだ。実は私はこの祖母の名を知らない。父からも聞かされなかった。そもそも女性の名前を軽んじる時代なのだ。誰々の妻、誰々の娘、誰々の妹、という総称が普通だった。相当な偉業でもせぬ限り女性の名は不明のままということが多い。この私もそうだ。かなり曖昧である。ま、それはさておいて兎に角この祖母は祖父のすることには何でも手を叩く、一見男の言いなりのように感じるが、従順さだけでなく聡明さも持ち合わせている女性だった。

 祖父はそんな練習の傍ら、各地の販売ルートを辿り全国各地の大名の情報を集め、どこを足がかかりに上り詰めるか算段を練っていた。当時、世情では美濃を制するものは天下を制すると言われていた。美濃国は土地が豊かで人心は実質で財力も豊富、この国の人間が兵をあげて京に上ったら、将軍などひとたまりもないということだ。

「美濃国か…ここだな」

祖父はそう呟いた。だがこれには自分で現地に赴く必要がある。自分の目で民(たみ)や街を見ることは必要不可欠。祖父自身が動くことはやぶさかではない、ただ問題は妻だ。昼に付け夜に付け妻は祖父の傍を離れない。

「あなた様を見ている事が生き甲斐なのです。離れては生きていけませぬ」

などと妻は毎日のようにそう言っていたのだ。さてどうしよう、さすがに今のように四六時中そばにいられたらやりにくい。しかもどこに行くにも妻を連れて歩く男など、軽んじられる可能性もある。妻の尻に敷かれているとか、妻に頭が上がらぬ男とか言われかねない。

 祖父は妻に自分の思いを懇々と言って聞かせた。男として生まれたからには自分の夢を叶えたい。一生をかけるに値する夢だ、夫を思う妻なら力を貸して欲しい、陰から見守って欲しい。どんなに離れていようと心は供にあるのだ、信じて待つことも賢い妻のありようなどと、まあ離れるのはわしも辛いとか涙の一粒くらいこぼしたのかも知れぬ。

 祖父に諭された、というか言いくるめられた妻は元々には賢く潔ぎ良い女でもあったから所以(ゆえん)か最後には頭(こうべ)をあげて

「ようございます。あなた様の夢を叶えていらっしゃいませ。私(わたくし)はあなた様のお帰りをいつまでも待っています。その代わり必ず帰ってきて下さいましね、この私の元に」

と言ったそうだ。きっとこれ以上引き留めたら鬱陶しい女だと思われ祖父に飽きられるかもしれぬという懸念も働いたのかも知れぬ。祖父の中ではいい女でありたいという女心も働いたのであろう。まあ、祖父はそれも分かっていて付け込んだのやも知れぬが。

 

〈陸へ続く〉

 

※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。