「蘭丸殿は、信長公の小姓。あの方を見捨てることは、我らにもできませぬ」

その言葉に、胸の奥が熱くなった。信長は死んだ。しかし、その名の下で動く者はまだいる。

「その行動が新たな波紋を呼ぶやもしれないぞ」

私の言葉に右近は迷いもなく首を横に振る。

「信長公に関わるお方の安否を辿ることに、誰が否やを申しましょうぞ。それこそ不忠というもの」

いかにも右近らしい答えた。この者は誰よりも、信義を重んじる。裏切りという言葉から最も遠い人間であろう。裏切りが横行しているこの乱世で、こうまで純粋に人の真を信じられるのはある意味不思議でもある。これもキリストの教えなどであろうか。私には分からぬ。そう言えば信長も神仏などまるで信じておらぬ人間であった。それなのに右近のキリシタン布教には協力的であった。あれは信じておらなかったからこそなのかもしれぬ。信長にとって神や仏など、どこの国の誰であっても構わなかったのだ。

右近はゆっくりと立ち上がる。

「まずは御身を休めてください。医師も呼んでおります」

右近は戸口へ向かいながら、ふと振り返る。

「そして……」

その瞳が、静かに私を見据えた。

「お話を伺いたい。本能寺の夜のことを」

私は何も言わなかった。あの夜の炎。叫び。血の匂い。そして――信長の最期。蘭丸がいない今、それを見届けたのはもう私ただ一人。右近はそれ以上言わず、静かに部屋を出ていった。私は天井を見つめた。高槻城の梁は、しっかりとしていた。揺るがぬ梁。この城の主の心のように。だが、天下の梁はどうか。

信長亡き世で、それを支える者は誰なのか。秀吉か。それとも――。天下の動きは秀吉に傾きつつある。私はもはや、それを黙って見ているしかないのであろうか。私はゆっくりと目を閉じた。長い旅の果て、漸く辿り着いた城。だが、私の旅はまだ終わってはいない。蘭丸の行方も分からぬ。先ほどは右近にあのように申したが、私は蘭丸が簡単に果てるとは思っておらぬ。必ず、どこかで命を繋いでおあるはず。諦めたらそこで終わりだ。だから、私が諦めるわけにはいかぬ。

あの刺客達は一体、誰が差し向けたものであったのか。玄以に会って、私が信忠の嫡子の生存を知ってしまった。それがこの先の障りになるとでも思うたか。ならばあの刺客は、秀吉の手の者と考えるのが順当。なれど……どこか腑に落ちぬ。では光秀の残党。否、それもあり得ぬ。今更、私を討ったとて世が変わるわけはない。遺恨か――否、それこそあり得ぬだろう。それほど光秀に真髄していた者がおったとは思えぬ。光秀の近習の者は悉(ことごと)く、散ってしまった。残っているのは所詮、有象無象の輩。わざわざ光秀の仇を討とうとか、恨みを晴らそうなどという殊勝な者などおるとも思えぬ。

(疲れた……)

体の傷は癒えているはずだが、やけに体が重い。旅の疲れであろうか。何と脆弱なことよ。そんなことを思いながら私はまた深い眠りの中に入っていった。

 秋はすでに深まり、摂津の山々には冷たい風が吹き始めていた。右近の屋敷で倒れてから数日、私は漸く身を起こせるまでに戻っていた。病というより、長い旅路の疲れが一気に噴き出したのであろう。右近は何も問わず、ただ静かに休ませてくれた。問いたいことがあろうに、急かすこともしない。その夜は庭に面した座敷で右近と向き合っていた。月は薄雲の奥に隠れ、庭の木々の影だけが揺れている。灯火は一つ。静まり返った夜であった。

「御台様、もう少しご静養なされては」

右近がそう言ったが、私は首を振った。

「そなたは私に何を問いたい?」

 

 

〈百捌什玖へ続く〉

※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。

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