その十.羽柴秀吉
琵琶の湖面は、夕の光を受けて静かに揺れていた。つい何ヶ月か前、蘭丸と並んで眺めた景色を、今は駕籠に揺られながら見ている。両脇には右近と忠興が馬に乗って付き従い、その後ろには護衛の者が数人控えておる。これでも随分と人数を絞らせた。私は一人でも良いと申したのであるが、右近も忠興も、容易に首を縦には振らなかった。
おそらくは、道中で私と蘭丸を襲った者の正体が、未だ掴めておらぬゆえであろう。蘭丸は今頃、森の家へ辿り着く頃か。あの美丈夫の若武者が、この先いかなる道を歩むのか。長可は気性の激しき男ではあるが、森の家はもとより一門の結びつきが強い。たとえ記憶を失っていようとも、その身の振り方は然るべき形で整えられよう。案ずるには及ぶまい。
風は穏やかであるというのに、水面はどこか澱を孕むような、落ち着かぬ色を帯びておる。まるで、この世の移ろいを映しているかのようであった。かつては安土の城より幾度となく眺めた湖であるはずなのに、今こうして見れば、同じものとは到底思えぬ。私の傍らに在るべき人影が欠けておるゆえであろうか。
湖畔には、長浜の城が姿を現していた。城門へ至る手前、湖より吹き上げる風が衣の裾を鳴らした。その冷たさに、思わず目を細める。まるでこの先に待つものを、密やかに告げるかのようであった。
城はまだ新しく、白く整えられてはいるが、どこか急ごしらえの気配が拭いきれぬ。信長の築いた安土とは明らかに異なる。威を誇る城ではない。時を掴み取らんとする者の焦りが、石垣の積み方や櫓の配し方の端々にまで滲み出ておるように見えた。
(猿め……相も変わらず、飽くことを知らぬ男よ)
胸の内で、そう呟く。
あの男は常に一歩先を欲しがる。足りぬものがあれば奪い、なければ作り出す。その執念が、この城の隅々にまで染みついておる。だが同時に、それはどこか綻びを孕んでいるようにも見受けられた。
私はゆるやかに歩みを進めた。背後には、高山右近と細川忠興の気配がある。二人とも言葉少なに従っておるが、その内に張り詰めた気配を宿していることは隠しようもない。無理もない。これから会う相手は、もはや一介の家臣ではない。織田の名を背にしながらも、その実すでに己の天下を見据えて動く男。
城門に至ると、兵たちが整然と並び、深く頭を垂れた。その動きに乱れはない。よく統制されておる。これほど短き間にここまで整えたかと思えば、やはりただの成り上がりにあらず。
(急ぎすぎておるな)
だが、そう感じずにはいられぬ。秀吉は、やたらと形を整えたがる男であった。己に足りぬものを形で補おうとする。身分の低き者にありがちなことよ。あやつは足軽であった頃の影を、未だに引きずっておる。だが、それこそが秀吉をここまで押し上げた力でもあろう。幼き頃に刻み込まれた気質というものは、そう容易くは消えぬものよ。
城というものは、ただ形を整えればよいものではない。そこに流れる“時”こそが、主の器を映す。長浜にはそれがまだ浅い。根を張る前に枝を広げたような、不安定さが残っておる。私は門をくぐった。石畳を踏みしめる音が、静寂の中に低く響く。城内はひっそりと鎮まり返り、無用なざわめきは一切ない。案内の者が前を行くが、その足取りには慎重さが滲んでいた。廊の脇に控える者たちは、いずれも膝をつき、深く頭を垂れている。
思えば、本能寺の夜以来、こうして信長の妻として公に姿を見せるのは初めてやもしれぬ。私という存在が、この城にとって何を意味するか。ここにいる者たちは、皆、理解しておるのであろう。
〈弐百玖へ続く〉
※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。
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