「殿は……信長殿は、心の奥底ではいつだって義母上様を求めておられました」

これは私の勝手な憶測に過ぎぬ。されど、信長のあの目の奥に潜んでいた陰りは、もしや母親を求める思いであったのではなかろうか、そんな気がする。

「信長が……?」

御前の瞳が揺れる。

「もしかしたら、何もかも義母上様に認めてほしいという思いが、その心根にあったのやもしれませぬね。あの方の狂気も、怒りも、孤独も……殿自身すら気づかぬまま、その奥底では母の心を求めていたのかもしれませぬ」

私はそう言いながら、胸の奥に奇妙な痛みを覚えていた。信長は強かった。誰にも頭を下げず、己の道を己の足で進み、周囲が恐れようとも意に介さぬ男であった。

けれど、その強さの奥に、幼い頃に置き去りにした何かがあったのだとしたら。どれほど天下を望もうとも、どれほど人の上に立とうとも、たった一人の母に認めてもらいたいという願いだけは、消えることがなかったのかもしれない。

それを信長自身が知っていたのか、それとも知らぬまま生涯を終えたのか。今となっては、誰にも分からぬことである。そう思ったとき一瞬、庭の風が鳴ったように聞こえた。私は思わず庭へ目をやった。

「殿……?」

そこに、殿が立っているように見えた。夕暮れの光を背にして、こちらを見つめている。今まで見たこともないほど穏やかな笑みを、その顔に浮かべて。私は息をすることさえ忘れ、ただその姿に目を奪われた。

(何と、穏やかな……)

「胡蝶殿、如何なされましたか」

「いえ……一瞬、そこに殿のお姿が見えたような気がして」

「信長の?」

「ええ。とても穏やかに微笑んでおられました」

私の言葉に、土田御前は庭へと目を走らせた。風に揺れる木々の枝先を眺め、そこに息子の姿を探すように視線を巡らせていたが、やがて静かに呟いた。

「あの子が、穏やかに……。もしかしたら、ようやく心安らかになったのやもしれませぬね。私の前にも、いつか現れてくれるでしょうか」

「きっと……いつか」

そう答えながら、私は先ほど目にした殿の姿を思い返していた。あのように穏やかな笑みを浮かべる殿を、私は生前、一度たりとも見たことがなかったように思う。天下を見据え、己の望むものを手にするために歩み続けたあの方は、いつも何かに追われるように先を急いでいた。人々が恐れ、ひれ伏し、誰もがその力を認めようとも、殿の心が満たされていたのかどうか、妻であった私にも分からぬままであった。

けれど、今の殿の顔には、そうした焦りも、怒りも、何かを求めるような鋭さもなかった。ただ、長い戦いを終え、ようやく安らげる場所を見つけた者のような、静かな笑みがあった。

「その日が楽しみでございます」

御前はそう言って、柔らかく微笑んだ。その顔には、先ほどまでの深い悲しみとは異なる、かすかな期待が浮かんでいた。亡き息子にもう一度会いたい。その願いが叶うかどうかは誰にも分からぬ。けれど、そう願うことさえ、今の御前にとっては生きる慰めとなるのかもしれなかった。

「今は……生きているうちに、どうしてもっと心を通わせることができなかったのかと、ただただ悔やむばかりです。今更どうにもなりはせぬのに、せんなきことにございます」

御前は伏し目がちに言葉を続けた。信長が生きていた頃には、互いの胸の内を知ろうとすることも、伝えようとすることも叶わなかった。そのまま別れを迎えてしまったことが、今になって御前の胸を責めているのであろう。

「後悔というものは……そういうものでございます。過ぎ去った時は、どれほど望もうとも取り戻せませぬ。あの時、別の言葉を掛けておれば、もう少し心を開いておればと、後になって思うことばかり。されど、あの時の私たちは、その時にできることしかできなかったのでございましょう」

 

 

〈弐百参什捌へ続く〉

※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。

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