(……やはり、この男は崩れぬ)

私は胸の内だけで呟いた。しかしながら、先ほどまでよりも興味深そうな顔をしておる。

私は静かに話を続けた。

「そこに、殿へ鬱屈を抱えておる格好の武将を見つける。弟は折に触れて、その武将へ囁くのじゃ」

私は秀長から視線を外し、庭の白砂を眺めた。

『このままでは、そこもとは飼い殺しも同然。気の毒なことよ』

『殿は我が兄ばかりを重用なされる』

『このままでは、いずれ放逐されるやもしれませぬぞ』

『もはや後はござらぬのでは』

「そのような言葉を幾度となく耳にすれば、人の心は少しずつ蝕まれていく。初めは笑い飛ばしておった者も、やがては疑いを抱き、最後には、その疑いこそ真実と思うようになる。心の底に殿に蔑ろにされたという思いを抱えていたならなおさらな」

秀長は静かに頷いた。

「人の心とは、まことに移ろいやすきものにございます」

「そうじゃ」

私は頷きながらも続けた。

「されど、我には一つだけ腑に落ちぬことがある」

秀長は何も言わない。

「その武将が、一廉の将であったならば、たとえ迷いを抱こうとも、それだけで軽々しく兵を挙げるとは思えぬ。必ずや、勝てるという確かな拠り所があったはずじゃ」

私はゆっくりと秀長へ目を向けた。

「そちはどう思う」

「仰せの通りにございましょう」

返答は、あまりにも迷いがない。

「では、その武将はいかなる餌を与えられたのであろうな」

私は小さく笑う。

「それが分からねば、この物語は完成せぬ。そちの考えを聞かせてはくれぬか」

秀長は困ったように肩をすくめた。

「はてさて、そのような難しき物語、拙者のような浅学の身には、とても思いも及びませぬ」

「……さようか」

それ以上は追わなかった。追えば、この男はさらに奥へ隠れるだけであろう。やがて秀長は静かに頭を下げる。

「さて、それでは拙者はこれにて失礼いたします。本日は御台様に再びお目にかかれ、加えて面白き物語まで拝聴できました。まこと、得難き一日にございました」

(……やはり語らぬか)

私は小さく息を吐く。

「もう、会うこともあるまい」

「さて、それは分かりませぬ。人の縁というものは、まこと不思議なものでございます。またどこぞで、お顔を合わせることもございましょう」

「そうかもしれぬな」

私は淡く笑う。

「その時までに、物語の続きを考えておいてくれると助かる」

秀長も微笑を返した。

「……畏まりました」

そう言って歩き始める。数歩進んだところで、不意に足が止まった。振り返ることなく、静かな声だけが庭へ流れる。

「拙者には、そのような物語を紡ぐ才などございませぬ。されど、もし拙者が、その武将であるならば」

そこで一度言葉を切る。

「己ひとりでは立ちませぬ」

私は思わず眉を動かした。

「大きな柱が二本。その二本が共に同じ方角を向き、必ず支えると信じられるならば……。その時初めて、兵を挙げることもございましょう。さすればそれは知略の上での行動。軽挙妄動ではござらぬ。勝算あってこその決断にございます」

私は思わず息を呑んだ。

「……なんと」

秀長は、漸くこちらへ顔を向ける。その笑みは、先ほどまでと何一つ変わらぬ穏やかなものであった。

「いやはや。やはり面白うございませぬな。拙者には文の才がござりませぬゆえ」

そう言って、何事もなかったかのように笑う。

(……そういうことか)

 

 

〈弐百弐什漆へ続く〉

※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。

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