空飛ぶ教室✈「”甘える”チカラ、”自立”するチカラ」 | みぬまっくワールド!さいたま市子育て支援センターみぬま(旧称さいのこ☆見沼区)

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赤ちゃん、子どもたち、いろんな大人たちと
泣いて、笑って、怒って、喜んで…
そんな「あるある話」や「えー、そうなんだ~!」「これってたいへん!」などなど
みんなと一緒にここでいっぱいおしゃべりしたいな。

<空飛ぶ教室 赤ちゃん・子どもに教えてもらう 子育てセミナーみぬまっく>

――赤ちゃんに教えてもらう“甘える”チカラ“自立”するチカラ――

PART3: 「”甘える”チカラ、”自立”するチカラ」

 

これまで、地上のセミナー「赤ちゃん・子どもに教えてもらう 子育てセミナーみぬまっく」当ブログ<空飛ぶ教室✈>は、たくさんの赤ちゃんや子どもたちに、”甘える”ことや”自立”すること、あるいはその間のこと・・・、いろいろと教えてもらってきました。

 今回は、これまで何回かに分けて考えてきたテーマ「赤ちゃんに教えてもらう“甘える”チカラ、“自立”するチカラ」の総集編です。地上のセミナー「赤ちゃん・子どもに教えてもらう 子育てセミナーみぬまっく」(2020年8月開催)から、講師の渡邉寛(ゆたか)さんのお話をお届けします。

 

これまでの記事も、当ブログのテーマ<空飛ぶ教室✈>から、ぜひご覧くださいビックリマーク

 

 <赤ちゃんは、減点法で生きていない>

 赤ちゃんは、自分の人生を減点法で考えることは一回もないんですよ。ジブン1人でおしめをかえられないし、こんなみじめな人生はない、とか全然思わない。手が自由になってきた、いろんなことがやれるようになってきた、の連続だと思ってるし、泣いたりすることでおしりがキレイになったり、おなかが空いたときに泣くと、届く人に届いてミルクがやってくるというのが、自分の中でもだんだんはっきりわかってくる。本能的にしてることも結構あるんだけど、こんなふうに泣きたいよって感情を込めて泣けるようになってくるっていうのが、生後2か月前後くらいから起きてくるのね。だから自分からいろいろしかけることで、自分にかなった世界に変えられるって思って生きてるので――。赤ちゃんは、自分が思ったら、そのようになるって思って生きてる人。

 

Aちゃん 11カ月    

わたしが泣いたら、世界が変わる!

 

<自分の人生は、自分で生きたい!>

 よくいう「イヤイヤ期」って、「イヤぁ!ダメぇ!ジブンでぇ!期」なんだと思います。「自分でやる!」って。できないのにって周りは思うけど、自分の人生は自分で生きたいというのが、もうゆるぎなく赤ちゃんにはあるんですね。「ジブンがしたい!」「ジブンでしたい!」とき。それを大人がよかれと思って、あるいは大人の都合でしてしまう、先回りされたりすると、子どもはとても怒ります。自分でズボンを履こうと思ってるのに、「時間がないから早くして!」って足を取ってやってあげちゃうと、ワーンって前につっぷしたり、後ろにひっくり返ったり、いろいろしますね。なんでかというと、とってももっともな理由、人生1回しかないからなの。赤ちゃん子どもは、昨日があって明日があると思ってないから。「いま、このとき」しかないので、その「いま、ジブンがやれる、やる!」のがうれしいと思ってる、「わたし、ジブンで生きてる!」って思いたいそのときなのに、さっさと先回りしてやられちゃうと、誰の人生かわからなくなっちゃう。「それじゃ困るんだ、ジブンの人生はジブンが生きてると思いたいんだ!」と言っていて。

 

 それが、時々、「ジブンで!」って言ってたと思ったら、ころっと「やって!」って簡単に言う。えっ?なんなんだ?ってクエスチョンが出るけど、赤ちゃんからすると全然疑問ではなくて、自分は〇(マル)なんだと思ってるし、自分が思ったらそうなるって思って生きてるし、赤ちゃんこどもからするとママや養育している人は“あ・うん”の呼吸の関係。“当然、ママも自分が思うように思ってる”と思っているからね。

 赤ちゃんが自分でやろうと思って、ときどきうまくいかないことがあるけど、自分ができないからうまくいかないって思ってないのね。自分なりのしかたでどこまでもやりとげようとします。それでうまくいかないと思ったとき、ちょっと困ったりして、そういう時、ママに「やって!」っていうわけだけど、ママはお願いされたと思ってるかもしれないけど、赤ちゃんはそうでなくて、いうなら自分の手のものがやってるとしか思ってないのね、自分の続きにママがいるんですよ、身近な人が。赤ちゃんからすると、自分がやってるのと変わらないのだと思います。ですから「ジブンで!」と「やって!」は、ふつうだと対立語なのだけれど、赤ちゃんこどもからすると、同じライン上にあって、ママがやるとジブンの思ったようにうまくいくって思ってるの。

 

<ママはあこがれ!ママになる!>

 そこが、ママは、自分のなりたいものがそのままそこにいる、みたいなね。あこがれもあるんだけど、あこがれだけじゃなくて、自分のいたいようにそこに先にいる人のように感じてるから、頼りにもするし、自分の続きのように思ってる、そういうはずの人だと思ってるから。お買い物に行くと、かごに入れるんだって、そこだけかっこよく見えてるのね。ママが人に言われるんじゃなくて、自分で決めて自分でやってる行為だから、かっこいいんですよ、お買い物してるとき。そこのところは自分がやりたいの。「それ買わないの!」って言うのに、ジブンで手に持ってかごの中に入れようとするのね。「ダメって言ってるでしょ」って言われると、ママがやってるそのままを自分がやってると思ってるし、自分がやりたいことをママがやってるんだと思ってるから、そうじゃないって言われると天地がひっくり返っちゃって、ワーンってひっくり返ってスーパーの床を背中でお掃除しちゃうんだよね。  

Aくん 1歳4カ月                           

ママみたいに、お買い物してるだけなのに~!!                           ママはやってること、どうしてぼくはダメなの??

 

<このシャカイ(社会)の人になりたい!>

 これはもう、自分が社会の人になろうとしたときに、ママが自発的にいろいろやってる姿がとてもかっこよく映ってて、その行動のあるパートを自分が見てて、“これだ!”っていうんでやろうとするんだよね。「やったぁ!」になるんだね。

 ズボンを履く時でも、袖を通す時でも、自分でやってると思ってるし、ママが袖を通してくれても、ジブンの続きがやってると思ってるの。いよいよ自分でできる時が来ると、やらずにはいられないというか、止めてくれるなという感じ。自分でやりたくてたまらないので。そういう時期に、スーパーで「今日は買わないの!」とか言われると、女のお子さんはひっくり返るよりも前に倒れ伏す感じです。“地球しがみつき型”って言ってるんだけど。男の子はね、ひっくり返って手足をバタバタして、カメさんの最期みたいな感じになるよね。なんでかというと、おそらく、生後3カ月くらい、仰向けになって、自分の手足が自由になって、人生が初めて、喜びがマックスになるんですよ。僕の手だ、私の手だ、足が動いた、やったーってね。ちょうどその時の状態に戻って、スーパーでワーンと、その時の赤ちゃんの姿になって、ワーンってやっているのかもしれない。“赤ちゃんの赤ちゃん返り”。でもね、これは自分が自分で思うようにやれるところから、その困惑を引き受けようとしてる姿なのだと私は思います。決してただ駄々をこねてるわけではなくて、自分が自分その人でいられた状態に戻って、そこから自分で自分の人生を生きなおしたいんだ、これは違うんだって言ってるっていうことなんで、すごくまっすぐで由緒正しい生き方をしているように思います。

   

Aくん 1歳4カ月                     

お買い物、こうやってやるんだよね!できるよ!

 

 私たちは時々減点法になってしまって、私がこんなふうにしてるからダメなんじゃないかとかちょっとは謙虚な気持ちにも、ひねくれたりもするんだけど、赤ちゃんは絶対そういうことないんだよね。いま生きている私は、花マルなんだって本当に思っているし、産んでくれてありがとうって自信満々で思ってる・・。

 

<人の身になって共感するチカラ>

 もう一つ、赤ちゃんは人の身になって共感するっていうのが半端でなくあります。「子育て支援センターみぬま」でもよく見ますけど、8か月くらいの子が、ワーンって泣いてると、11か月くらいの子が、ハイハイで行って、よしよしってなだめようとしますね。それでも泣き止まないときは、自分のママの手を取って、「やって!」をします。

 ママが自分にしてくれるように、その子をいい子いい子してやってって言うんですよ。これは何べんも見る。これは自分がしてあげたいことなの。自分がいま生きていることをどこまでも〇(マル)だと思って生きてるのに、なぜか思うようにならない時のその切なさやたいへんさ、一人で抱えきれない感覚を、自分自身体験しているように感じて、泣いている小さい赤ちゃんの表情を見て、わがこととして共感し、行ってなぐさめるというのを、11か月くらいにもなるとします。とてもファンタスティックで奇跡のような光景ですよね。  

              

Sくん 1歳6カ月                   

ママ、どうしたの?ぎゅー。

 

  『甘えと自立』というテーマなのだけれど、どちらの言葉もたぶん、私はどういう文脈で主に使われてきたか、厳密にはわかってないのですけど、教育的な意味合いで使われてきた言葉のような気がします、とくに対立的な対語としてもっぱら使われるようになるのは、おそらく明治時代以降からの・・。赤ちゃんや子どもが自分で生きていこうとするチカラについて話そうと思うと、その対語は決して適切なではなくてね。

 そのことを心において、あえてどこで“自立”していくのかというと、人の身になって共感できる力を半端じゃなく持っていて、その人が自分の続きのようにしか思えてない、自分がつねにセンターで、そのつづきにまわりの世界があって回ってる感じ。それがね、そうじゃないんだなって気が付くときがあるんですね。それが子どもさんによるけども、およそ4歳前後に起きるのね。

 

<“人には人の人生がある”と気づく>

 有名な実験があって、『Aちゃんがお人形さんで遊んでて、それをBOX―Aに入れて、ふたを閉めて、どこかへ行きました。次にBちゃんが入ってきて、BOX-Aを開けてお人形さんで遊んで、こんどはBOX-Bに入れて、どこかへ行きました。Aちゃんが帰ってきました。どっちの箱を開けると思いますか』という質問なのね。それを3歳4歳5歳の子どもたちに聞いて実験してるんですけど、とてもはっきりした結果が出てて、3歳の子は、今入ってるお人形さん(BOX-B)の方を開ける、と答えちゃうんです。Aちゃんは当然BOX-Bに入ってることは知らないんですよ。自分が入れたところ(BOX-A)に入っていると思ってるから。4歳はほとんどの子が、移動した先、BちゃんがいれたBOX-Bじゃなくて、Aちゃんが自分で入れた方(BOX-A)を開けるっていうふうに答える。5歳になるとそれが完璧にできるのね。3歳児は、今入っている方を開けるって答えるんです。

 

 何が違うかっていうと、その人にはその人の人生があるということに気が付いた、そういうことでもあると思います。私とは違う文脈で生きてるんだってことがわかるようになるという・・。それぞれの物語があるのだとことがわかってくる、そういうことだと思います。実はそのあたりから、いよいよ言葉の世界の人になっていくということでもありますね。

 

<集団の中のぼくと、おうちでのぼくと、その間のぼくと…>

Rくん(3歳2か月)

 『幼稚園の帰りは感情の整理がつかない様子。

幼稚園楽しかった

みんなとバイバイがさびしい

ママがいなかった時間

泣きたくないのに泣いちゃう

お兄さんになりたいけど甘えたい

小さな体のなかでいろんな感情が全身を

駆けめぐっている姿に感動しちゃいます。』

Dさん(Rくんのママ)より

 

 Rくんは、まさにその途上を一所懸命生きていて、その姿にお母さんが感動していて、そのことにも打たれますね。

 

 幼稚園は、一言でいうと様々な法によって成り立っているこの社会に設けられている幼児教育の施設です。園長さんがいて、先生がいて、ひよこ組さんやぞう組さんがあって、入園式があって、一日一日のスケジュールがあり、いろんなイベントを経て、卒園式、そして小学校へ――。さまざまな言語化された体系のなかでのその子その子の日々です。つまり“社会の人”としての一日なんですね。いくつもルーティンがあって、それができてうれしい自分もいれば、すぐになじめないさびしい自分にもなります。おうちは、わたしとママ、お兄ちゃんとわたしだったり・・、「あなたとわたし」という対になっている関係を主体にした世界であるのに対して、幼稚園、保育園は、みんなが集まって成り立っている、成り立たせている集団の世界。Rくんは、ママとの世界とはまったくちがう異次元の世界に行って、一所懸命に生きて、彼とは相談もなく決められているきまりによって、おうちへ帰るという、自分の気持ちと身体がどうにも受け止めきれないあれやこれやを一身に抱えてこうなっている、そうやってなんとか受け入れていこうとしている姿なんですね。園でもおうちでもない、そのあいだのRくんの葛藤を、とてもいとおしい、いまこのときしかない気持ちと身体の姿として大切にしているDさんなんだと思います。

 

 幼稚園や学校、大人だと会社や仕事の場だったりですね。そこでのルールもあるし、この社会のルールがその後ろにある世界を、一所懸命引き受けながら、おうちとは別の社会のある役割を、園児なら園児を生きてるのね。

 園からおうちに帰ってくる間は、園の子でもないおうちの子でもない、本来はなかなかハラハラドキドキ、ファンタスティックな時空間になるのだと思います。私たちでもありますね。家ではママだったり妻だったり、父親だったり、会社や仕事場ではそこでの役割の人。父親でも会社の人でもない私。私は本当は何をしたい人?・・私はいったい誰?・・。ささやかな体験だけど、私も中学生のとき、学校の帰りに行っちゃいけないような繁華街によく出かけていきました。そのときは自分探し、いろんなことをやってみたくなったりしているわけですよね。家の人も先生も知らない私。そこの名画座で見知らぬ世界にたくさん出会うことになりました。人が人を恋うる美しさにも切実にも、親が子を失う慟哭とそのあといつものように生きていくという悲しみにも。立場を入れ替えるとそれは私のことでもあったから――。学校で連れていってくれる映画にも感動したけれど、そこにはないまったく別の色彩の世界があり、後の私をいつも支え返してくれている体験です。

 

 親としては、社会的な意味での適応ということを心配もするから、子どもに対して小さいうちから是々非々をはっきりさせなきゃいけないと思ったりして、先回りしてしまうのだけど、大事なことは、その時社会のルールが完璧にできる人になったらいいわけじゃなくて、どこまでもRくんはRくんその人であってほしい。そのRくんが、ここの場所はこういう風にやるところなんだなっていう風に、一種のゲームじゃないんだけれども、そこは一つのある作られたルールの下にあるものなんだなっていうのが分かっていくなかで、自分を失うことなく、ここではこうなんだなっていう中で引き受けていく、そのことができていくと、世の中で言っている『自立』という言葉にもかなっていくのかなと思いますね。

 

 <人に共感する力をベースに、生きる願いを持ち、“こうしたい”も、“できない”も伝えていける力 ―自立すること>

 どうしても“自立”というと、ここではこんなことがちゃんと守れないといけないとか。自分でちゃんとできるようになりなさいだったりすると思います。みなさんもそんな目線に出会うことがありますね。お母さんなんだからちゃんとやりなさいという目線が、時々スーパーで買い物するときに飛んできたり、電車の中でも「親なんだから、こどもを泣かせるな」とか「しっかりしつけろ」といった目線や言動にあったりするわけだけども、その時に自分が、自分らしいお母さんができたりはしないのね。子どもの事情も分かってるし、この子と一緒に、自分のしたいお母さんをしたいなと思ってても、なかなか許されない時があって、すごくつらい思いをすると思う。その時は、自分が一つの価値観で裁断されてしまうようなところにいるのだと思います。そういうとき、自分でもそうしたいけどそうできないんだ。その時どういうふうに、今とっても困ってるんだ、手に持て余してしまって大変なんだ、どうしよう、って伝えられているだろうか。そういう関係や場が持てているのだろうか、そう思います。

 

  泣いてる8か月の子がいたら、11か月の赤ちゃんが、その人の抱えきれない大変さってものを身につまされてとんとんと支えに行ったり、自分では足りない時に、できる人を引っ張ってきたりするわけですよね。人に共感する力をちゃんと土台に持ちながら、どんなふうに人を思い、自分ができない時にそれをまっすぐに、できないからダメとかじゃなくて、自分はこうしたいんだけど、今こうなんだ、ってちゃんと伝えていける、そういう力を、生きる願いをもって、人に対しても自分にも持てていったら、人と共に生きるとても具体的なチカラという意味で、本来の『自立』っていうことなのではないかなと思いますね。

 

<このわたしでいいですか?関係を確認できること ―甘えることの大切さ>

  大人が『甘え』と言っていることは、こどもからすると、とても切実ではっきりしていると思います。

 いったら “このわたしでいいんだよね”という切実なことを、その人とのあいだで確認したいときに起きていると思います。「このわたしでいいと言って!」「このわたしがいいと言ってください」、そう思ってくれているはずの人との関係そのものの確認でもありますね。“このわたしでいいんですよね?”っていうのを確かめるのに、それがよく、理屈じゃなくてわかってる人のところでしかそれを確かめられないから、よく知らない人には決してしないと思います。無条件でわたしがそのままのわたしでいいと思ってくれているはずの人に『甘え』てくるのでしょう。自分のそのままが無条件で花マルだったころに立ち返って、その関係を確かめ直して、そこで生きたい、次のステージに向かいたい。ママから見ると、文字通り赤ちゃん返りに見えるかもしれないね。でも赤ちゃん返りをするというのは、もう赤ちゃんじゃないんだなということですよね。“次のステージを、そういう形で自分らしく引き受けていきたいんだけど、ここからでいいですか?”って、“ママとの関係を確認しながらやっていいですか?”ってやってる時に、『甘え』ていると感じる。逆にいうと、親が、甘えていると思うとき、こどもはなけなしの関係の確認と、そこを拠り所にした“出発”とを告げようとしているとも言えそうです。

 こどもにとって、甘えるということ、甘えることができる関係というのは、とても大切で、切実なことで、親は親でいろいろあるから、すぐには受け止められないこともあるけれど、その切実さは打ってくるから、たいへんにもなりますよね。

  いずれにしても、『甘えと自立』という対立的に考えられている対のような言葉は、赤ちゃんや子どもたちがまっすぐ生きてる姿を語ろうとするときには、ふさわしくないなあと思います。赤ちゃん子どもたちからそういうことを教えられるというか、不適切な窮屈な言葉の世界に私たちは生きてるなって感じますね。     

                    Sくん 2歳9カ月                         

思うようにいかないの…抱っこして~。                         抱っこしてもらえたら、また次に進めるよ。

 

 ずいぶん昔の話ですけど、中学生の女のお子さんが、学校に行くと、自分が行ってる感じがしなくて、それでも毎日「行ってきます」と何でもないかのように通っていたのですね。親が心配するから、自分がだめな子だと思われたくないし、思いたくなかったから。だからすごく辛くて辛くて、身体に現れちゃうくらい大変になって。お腹が痛くなったり・・、心身症的な状態になっていたのだと思うけれど、親御さんの方からすると、誰もが学校に行って当たり前のように思ってる時代だったので、お医者に連れていくと何でもないって言われるし、「何で行かないんだ!」一方になってしまって。親御さんにしてみたら、その子のこれからを案じてのことではあったろうけれど、その子はとても悩んで、亡くなっていっちゃうのです、自分でね・・。残されたノートがありまして、そこに、「お父さん、お母さん、教えてください。この私ではいけないのですか。・・」って、書かれていたのです。いまもそのことが私の心にずっとあって・・・。

  これまでとはちがう世界を自分が引き受けていこうとするときに、これまでの自分でいられないときに、「この私ではいけないのですか?」って、確かめられる相手がいる、確かめてくれる相手として私がここにいる、そう思えるように、みなさんもいてくれるといいなって思います。子どもはそれを初めから信じて疑っていないから。

 

クローバー  クローバー  クローバー

 

次回は、この回(2020年8月)の子育てセミナーみぬまっくに参加したお母さんたちの声を、山びこ号でお伝えしますニコニコ

 

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