障害の自己受容 | われは河の子

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 まずは全盲のブロ友さんののぶさちさんのこの記事をお読みください。(リブログの許可はいただいてあります。)



 私は札幌市の認定障がい者講師ですが、読んでいてすごく腹が立ちました。

 のぶさんも言っておられますが、好きで障害者になった人なんて世界中探したって一人もいないはずです。


 そして今そんな自分に折り合いをつけながら皆さん生きているのです。


 普段は大見得を切って『障害は私のとってのキャリアの一つに過ぎません。』と語っている私にしても、これは発症後にたまたまキャリア理論を学習する機会があったからこそ辿り着けた境地で、実際にはやはりどこかで「何で俺が?」という葛藤は存在します。

 

 それを受け入れ、自己の新しいアイデンティティとして認識することが自己受容ですが、先天性障害、中途障害によってや、自己の性格そして障害そのものによって受け止め方は様々です。

 言い方は乱暴ですが、つい昨日まで健常者としての生活を送っていた中途障害者である私たちの方が、ものごころついた時からそれを負っていた先天性の障害者の方達よりショックは大きいかも知れません。(先天性の方の気持ちを無視していたら申し訳ありません。あくまで私の独断です。)

 これはおそらくすべての障害を持つ人に共通のテーマで、私たちの「脳卒中片麻痺当事者の会」でもオンライン会のミーティングのテーマにどうかというアンケートがなされています。

ここでいう6番がそれに当たります。


 ここからは私論ですが、一言で言って障害と言っても脳卒中片麻痺のケースはその程度そのものが人それぞれだという特性があります。

 

 侵された脳の反対側の半身に麻痺が来るという大前提は同じですが、麻痺があっても歩ける人もいれば、一生車椅子や寝たきりで過ごす人もいます。私の場合は外での移動は全て車椅子頼みですが、自宅内では杖歩行が可能です。

 

 そして不思議なことに本来健側である非麻痺側にも2〜3割のパフォーマンスの低下が見られたり、一見半身麻痺とは無関係に思える排尿障害などとの関連が指摘されていますし、発症後数ヶ月から数年を経てから現れる難治性慢性疼痛である視床痛(脳卒中後頭痛・CPPS)などの問題もあります。視床痛は片麻痺保持者のおよそ8%に出現するというデータがあります。

 ですから同じ片麻痺という障害を抱えてもその程度は本当に一人として同じ物はないのです。


 それとこれも特筆すべき点だと思いますが、片麻痺はリハビリによってある程度の改善を見込めることがあるということです。もちろんその場合には本人の涙ぐましい努力が必要となりますが、これにより100%ではありませんにしろ、発症前の生活レベルを取り戻した人がたくさんいらっしゃいます。


 しかし、前述のの全盲ののぶさんがどれほどリハビリを積もうと、生活動作は改善されるかもしれませんが、失明そのものが改善される可能性はありません。全盲の人は,ほんのわずかでも、明るさを感じた時点で全盲とは認定されなくなるのです。

 これは友人の両脚欠損者のたかちゃんについても言えることで、彼は不断の努力でリハビリを積んで、両脚義足ながら自分で車を運転して旭川から札幌までやって来ますし、1人でソロキャンプを楽しんだりしている鉄人ですが。どれほどリハビリを積んでも彼の失われた脚が生えてくることはあり得ません。


 もちろん障害に上も下もありませんし、不幸自慢をしても不毛です。

 ですがこの受容を上手く受け入れることによって、残された人生にどのように舵を切って行くかも変わって行くことだと思います。

 

 私たちはなりたくて障害を負ったわけではありませんが、決して不幸な存在でもありません。


 私なぞは、本来の性格がノー天気なのか?

障害者になっても美女に囲まれ(まだ見ぬブロ友美女を含め😍)、やりたいことは目白押しで毎日が楽しくて仕方ありません。

 一番困るのは自分自身より周囲の偏見です。

 

 私たちは決してかわいそうな人ではありません(可愛い人は私もそうですけれど🤣)