東京を探訪す その1 靖国神社・遊就館編 戦争の、負の遺産と愛国心を、見詰め直す貴重な体験の場
この夏に、東京で就職した娘が帰省しているので 無人となったアパートへ、一人転がり込んで 3日ほど、東京探訪をした。ミリオタの私としては、靖国神社に付属する 遊就館を探訪するのは、避けて通れません。暑い日でしたが、地下鉄を乗り継いで、 靖国神社へ向かいました。ちょうど「みたままつり」の真っ最中でしたので 黄色提灯が見事に祀られてました。大村益次郎銅像が、真夏の真っ蒼な空に 勇壮に映えていました。 大村益次郎:長州(山口県)出身で シーボルトの弟子や緒方洪庵の適塾で学び 医師、蘭学者、軍人、軍学者で活躍。 明治政府の初代兵部省の最高実力者となり 陸軍の創設などにより 「陸軍の祖」と言われるようになる。 明治2年(1869)、京都で、大村の急進的な 兵制改革に不満を持った同じ長州藩士などの 暗殺テロにあい45歳で死去 長崎ではシーボルトの娘・楠本イネに蘭学を教え 女性医師となったイネが、益次郎を看病し、 最後を看取っている。画像の左が、稲本イネで、 右は、イネがレイプによって生まれた 娘の高子です。娘の高子も、美人でしたので、 レイプされるという悲劇にあいます。イネは大村益次郎と師弟関係になるので、 二人の間に恋愛感情があったのか? というのは、よく小説のネタによくなります。写真で見る限り、大村益次郎の容貌は イケメンにはほど遠い?のですが、 献身的に益次郎の最後を看取ったようなので 信頼関係はあったと思います。イネの母は、商家の娘で、シーボルトに見初められて結婚 まあ、現地妻のようなものなのでしょうか・・・。シーボルトは幕府の禁制に触れて、ドイツへ強制送還。ハーフと差別されて育ったので 益次郎が差別することなく蘭学を教えたのが 二人の信頼関係を生んだのではと想像します。なお、二人が出会った時には、 イネには、3歳の高子がすでにいました。 なお、イネは、実質的に、日本最初の女性医師の一人と 言われています。 (明治当初は、国家試験の医師免許制度が なかったので、医師として実質働いていました)さらに言うと、娘の高子も、レイプにあい 医師を目指すのを断念します。神門に、仙台の七夕飾りが、夏風に棚引いていました。神門の扉には、菊の御紋章が輝いていました。靖国神社は、1869年(明治2)に、明治維新以降に 国家のために殉難した人々を祀るために創祀されました。 (戦火にあった中国、サイパン、沖縄、空襲、被爆者などの 一般国民は、合祀されません) 1887年(明治20)からは、陸海軍が管轄し、 敗戦後は、国家管理から、宗教法人となりました。 (極端に言ったら、軍人だけを祀る神社ですので アジア各国の反発が生まれる素地となります) 伊勢神宮の創祀は、4~7世紀のどこかですので、 靖国神社は、歴史的にも新しく、格式は高い?とは 言い難いかもしれません。 さらに、言うなら、政治的な色合いが多い神社です。 1988年、昭和天皇は、東条英機などのA級戦犯が 靖国神社合祀された時に、強い不快感を示し 「だから私はあれ(合祀)以来参拝していない。私の心だ」 と述べたとか・・・(宮内庁長官のメモ) 以後、皇族は、誰も、靖国神社参拝をしていません。 つまり、逆に言うなら、皇族、天皇家が、 靖国神社参拝を再開した時は 日本が大きく変わった証明となります。 (戦前の軍事国家回帰なんだよなあ・・・嗚呼) 靖国神社は、「軍人による軍人のための神社」なのですが 今や、「政治家による政治家のための神社」に なりつつあるのかもしれません。 (靖国神社は、旧統一教会と同じ範疇の 宗教法人です。 政治家が政治利用するのは、 いかがなものかと 思うのですが・・・)遊就館の横には、 特攻隊の兵士の像があり、 死を受け入れるしかなかった若者たちの苦悩を 思わずにはおられません。 「安らかにお眠りください」で済まされない 当時の為政者、指導者、上官たちの責任を 思わずにはおられません。と書いてはみたものの、兵器好きのミリオタである 私にある矛盾を、どう解釈したらいいのか? 自分でも理解に苦しんでいます。日本には、戦争の反省からか、 大きな軍事博物館がありません。ゆえに、遊就館は、貴重な軍事、兵器博物館となっています。館名は、中国古典の「荀子」の一節からの命名だそうです。 「君子は居るに必ず郷を撰び、遊ぶに必ず士に就く」 (居るならば、自分の居るべきところを選びなさい。 学ぶなら、自分にとってより良き人に学びなさい)つまり、「遊就館の良き展示物、人物から、学びなさい」 という意味を持たせているようです。 零戦は、速度、運動性、航続距離を延ばすために、 防弾板を無くすなど、軽量に徹し、 ある意味、人命軽視の設計となりました。 武器を作るには工作機械がいります。 工作機械を作るための工作機械の技術力、工業力が 弱かった日本は職人芸で零戦を作りました。 結果、精密機械のような戦闘機を作り続けます。 一方アメリカは、パイロットの生命重視した 誰でも作れる戦闘機を作りました。 戦闘機を作る時間より、パイロットを育てる時間が たくさん必要です。 太平洋戦争後半は、石油不足もありましたが パイロットを育てる余裕がなくなった日本には 特攻隊を編成するしかなかったとも言えます。 (一人前の戦闘機ファイターを育てる時間が無いので 半人前のパイロットで、特攻させたのです)写真の彗星は、太平洋戦争後半に活躍した 戦闘機の爆撃機です。横須賀航空隊の芙蓉部隊を率いた美濃部隊長は 時に、特攻隊を拒否しながら、この彗星で夜間爆撃等で 活躍したと、よく言われているのですが、 美濃部隊長は、特攻攻撃を命令したこともありました。 (隊員は、特攻隊を免除されたとは思っていなくて 戦っていたそうです) 終戦時、特攻だけでなく、徹底抗戦を言ったりと、 様々な証言、言説、変節があり、評価が難しい人物とも 言えるのが美濃部隊長でした。大砲は戦場では、今も大切な兵器です。プーチン戦争で驚いたのは、 「下手な鉄砲(大砲)、数撃ちゃ当たる」だったのが、 GPS搭載の砲弾で、百発百中に なっていたことでした。 (戦艦の大砲なんか、条件が良ければ10~15% 悪ければ、1~3% 100発撃って、5発も当たれば、良い方だったようです。 陸上は、動かない目標なので、当たる確率は もっと高くなるはずです)ドローンで敵の位置をGPSで確認し ロケット弾、砲弾のGPSが、命中させるので ほぼ百発百中になってきました。 (逃げようがない戦場となっているのが ウクライナです・・・嗚呼)なお、世界最初のコンピュータENIACは 砲弾がどう飛ぶか(弾道計算)を 計算するために作られました。サイパン島にあった九七式中戦車が展示されてます。太平洋戦争中、日本軍の主力戦車として活躍しましたが 主砲の威力不足と装甲の薄さで、 アメリカのM4シャーマン戦車には 全く歯が立ちませんでした。沖縄戦では、装甲の薄さから、車体を土に埋め 砲塔だけを出して、必死に戦いました。日本の戦車兵は、弱点を知りながらも奮戦したのが 哀れでなりません。なお、戦車兵だった作家・司馬遼太郎は、 この九七式戦車内で煙を出したり、 同期の中でも飛びっきり運転が 下手だったそうです。人間魚雷「回天」は、飛行機による攻撃が主力となり 大砲、魚雷を撃ち合う艦隊決戦ができなくなった 日本海軍には、たくさんの魚雷が残りました。この使い道が無くなった魚雷をどうにかできないかと 考えたのが、人間魚雷・回天でした。魚雷を一人乗りの潜水艦に仕立て上げました。潜水艦の甲板に回天を載せて攻撃しました。小さな艦橋に、小さな潜望鏡で突撃しました。 (楠木正成の「菊水」の紋章が描かれました)人間が魚雷を操縦して、敵艦へ体当たりします。脱出装置はないので、一度出撃したら 生き残ることはできない、特攻兵器です。操縦は大変難しく、搭乗員は 「6本の手と6つの目がいる」 と言われ、操縦が上手い兵士から 特攻作戦へ出撃しました。いくつか戦果は挙げたのですが それ以上に、潜水艦、回天の損害が 大きすぎたとえいます。 (アメリカ軍は、すぐに対策を取るので 上手くいかなくなりました)大砲の撃ち合う艦隊決戦ができなくなったので 使い道が無くなった徹甲弾(甲板を打ち抜く砲弾)を 利用したのが「桜花」でした。固体燃料ロケット推進の一人乗りの 脱出装置のない特攻兵器です。 (砲弾に、GPS代わりの人間を載せて 誘導する兵器です)一度出撃したら、助かる方法はありません。爆撃機に吊り下げられ、目標に近づいたら 切り離されて、ロケットに点火し、突撃しました。桜花を吊り下げた爆撃機はスピードが出ないので 格好の敵戦闘機の餌食となります。初出撃の神雷部隊は、 1945年3月、沖縄へ向かいました。鈍足の桜花隊爆撃機を守るための 護衛戦闘機が少なすぎると 攻撃中止を進言する指揮官もいましたが 「今使わなくて、いつ使う?」 と、作戦は強行されました。飛行長「ろくに(護衛)戦闘機が無い状態で 成功はありえない。 特攻なんかぶっ潰してくれ」 アメリカ軍はすぐにレーダーで桜花隊を確認し 空母艦隊から戦闘機を発進させ、攻撃。空戦の結果、桜花を積んだ爆撃機18機全滅 護衛戦闘機30機中、10機が未帰還 戦死・未帰還 142名桜花の候撃は、計10回ありましたが、 戦果は、アメリカ・駆逐艦1隻撃沈、3隻大破、3隻損傷日本軍は、桜花 55名、爆撃機 365名 戦死 (護衛戦闘機パイロットは不明) 桜花は、ロケット推進なので、いったん点火したら 撃墜するのは困難でしたので、 アメリカ軍は、爆撃機から分離する前に 攻撃するのに徹しました。なお、「桜花」をアメリカ軍は、 「自殺する愚か者」兵器なので 「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」とコードネームで 呼びました。最後に、桜花設計者は、戦後、新幹線の設計に 携わりました。桜花については、戦後、設計者は 「桜花開発は、 日本の技術史から抹殺されるべきだ」 としてインタビューを拒否しました。ついでに言うと、世界最初に音速を突破した アメリカのベルX-1は、 徹底的に桜花を研究した成果を 参考にしたと言う説があります。 (設計者は、X-1の成功を知って 「少しは、役に立てたのかな」 という感想を持ったそうです。)さらにいうと、第1回の神雷部隊の司令官は 1948年に、遺書を残さず鉄道自殺しました。ベニヤ製のモーターボートで 海岸近くの艦船攻撃用だったのですが 船主に爆薬を積んだ特攻兵器に 変わっていったのが「震洋」でした。フィリピン戦で少しは戦果を挙げたのですが アメリカ軍の対策ができるにしたがって 戦果をほとんど上げることなく終戦となりました。 (外洋を渡れないので、運搬中の輸送船が 撃沈されて、失うことも多かったようです)実は、震洋で攻撃する前に 乗組員達は、フィリピン、沖縄の地上戦に 巻き込まれてしまい 出撃することができなくなったとか・・・。遊就館の展示物を見て、 戦争について、どう思うかは、様々でしょう。私は、戦争反対、軍国反対なのですが 兵器への興味が尽きないミリオタです。どんな兵器にも、人間ドラマと歴史があります。兵器を知れば知るほど、 人間の愚かさと、知識の追及に 限りがない事を教えられます。見方によっては、兵器は、 いい意味でも悪い意味でも、 人間の知性の塊です。実は、強い兵器ほど、時代を風靡した兵器ほど 美しいものは無いと思っています。人殺しを如何に合理的にするかを追求したのが 兵器です。人間の悪と善の二面性を持っているのが兵器です。靖国神社の遊就館で、館名通り、 何を学ぶかが、大切となります。愛国心の裏の顔を忘れないことが 平和への道かもしれません。紹介できなかった展示物をみて 思ったのは、特にパネル展示でした。日本軍の失敗、負の戦歴が ほとんど無かったことでした。ノモンハンの惨敗、ガダルカナルの一木支隊 打通作戦、インパール作戦・・・負け戦にこそ、最も日本人らしさ 日本民族の特性が見えるからです。美しい、綺麗な物語だけでは 歴史の本質は見えないと思います。靖国神社を批判的?に書いたかもしれませんが 英霊を祈る気持ちはあります。遊就館に、貴重な兵器、物品が 末永く保存されることは 日本にとって素晴らしいことだと思います。国ができないことをしている靖国神社は 存在価値はあるはずです。負の遺産を残している靖国神社・遊就館へ 是非、見学してください。戦争で亡くなった方への冥福を祈って下さい。最後に、賛成、反対の、両方の意見、議論を 勉強しながら、靖国神社へ 参拝してください。なお、靖国神社のスズメは ご飯粒を、手の平から食べますよ!******** 東京探訪 つづく ********