油井大三郎氏が書かれた『避けられた戦争』を読み終わりました。

 

この本の副題に「1920年代・日本の選択」とあるように1920年代に日本がもっと中国に対して融和的だったら、中国の排日政策を和らげることができ、結果として日本の軍部が満州事変を起こすことを防げたのではないかという仮説を提示したものです。

 

「一九二六年末から二七年初めは、英米両国が帝国主義時代の象徴である不平等条約の是正に応じる政策転換を決意した時期であり、本書で『帝国縮小戦略』と呼んだ政策への転換期であった。この時期に、日本が同様な政策転換をしていれば、中国における『排日運動』の激化は回避できたのではないか。」

 

私は、この議論に否定的です。なぜなら油井氏がこの本で述べている戦前の日中関係において肝心な問題が抜け落ちているからです。

 

それは戦前の日本と中国の経済関係です。この本の末尾に載っている参考文献にも戦前の日本と中国の経済関係について書かれた本をほとんど見つけることができませんでした。

 

そこで、ここからは戦前の日本と中国の経済関係を提示することによって、1920年代の日本が中国に対して簡単に譲歩できなかった理由を述べてみたいと思います。

 

私が戦前の日中関係で啓蒙を得た本の中に、池田美智子さんが書かれた『対日経済封鎖』というものがあります。この本の内容を簡単に述べると次のようなものになります。

 

第二次大戦後の日本は貿易収支が基本的に黒字の国家でしたが、戦前はアメリカやヨーロッパなどから石油のような資源や先進的な機械などを輸入せざるを得ず、膨大な貿易赤字を計上しなくてはなりませんでした。

 

この莫大な貿易赤字を和らげてくれたものが、日本の中国貿易での膨大な黒字でした。日本が満洲などに持っている帝国主義的な利権より遥かに重要だったのが市場としての中国の役割だったのです。欧米諸国から輸入を拡大するためにも中国への輸出は日本の存亡をかけたものにならざるを得なかったのです。

 

また日本の中国に対する輸出は中国全土に広がっていたのでは無く、満州と北支に異常に偏っていたと池田さんは書かれています。日本の陸軍があれだけ、満洲や北支にこだわったのにはそれなりの理由があったのでした。(それに比べて海軍が陸戦隊を上海に置いていたのは条約上合法とは言え、日本の国益に関係なく、その上かなり危険だったのです。)

 

このような日本と中国の経済関係を理解した上で、『避けられた戦争』に引用されている石橋湛山の主張をみてみたいと思います。

 

 「米国の要求、すなわち極東の経済的開放なることによって、……日本は、満蒙のいわゆる特殊利益を失うかも知れぬ。しかし、……もし支那の全土に、自由に活動し得るならば、差引き日本は莫大な利益を得る」

 

はたして石橋湛山が主張するように日本が率先して満蒙の特殊利益を放棄したり、関税自主権などを中国に譲った場合に本当に中国は日本との貿易で膨大な赤字を容認してくれたでしょうか?

 

日本の外務大臣であった幣原喜重郎はそうは考えていなかったようです。彼は中国に対して政友会などから弱腰外交と批判されていましたが、実際は違いました。

 

「つまり、日本は、一般論としては、中国の関税自主権に前向きな姿勢を示しながら、附加税の導入という北京政府が当面重視していた課題については強硬に反対する姿勢を変えなかった。入江昭は、この点を幣原外交の『硬直性』と評価した」

 

幣原は日本の貿易が中国に依存していることを熟知しており、そう簡単に譲歩できないことを知っていたのです。

 

というわけで、いくら日本が中国に持っている特殊利権を放棄したからといって、中国が日本との貿易を許してくれるとは限らず、中国市場から排除される可能性の恐怖から日本は簡単に逃れることは出来なかったのです。

これまで書いてきたことを整理しておきます。

 

「近代」という時代は、中産階級(ミドル・クラス)が中心になり活躍する社会です。そして日本が明治維新以来、それなりにうまく適応できたのは江戸時代にある程度のミドル・クラスが生まれていたからではないかというのが私の仮説です。

 

一方日本の隣にある李氏朝鮮や清朝には、日本の江戸期に生まれていた中産階級が存在しなかったから、欧米列強の圧迫に対抗できなかったのではないかという疑問が湧いてくるのです。

 

これらの問題を解明するために、50年前に書かれた梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』を読み直してみました。驚くべきことに私の疑問はこの本にほとんど書かれていました。

 

「封建時代を通じて育成され、革命を経て解放された、エネルギーに満ちたブルジョアがいた。」(128ページ)

 

「具体的には、封建制度のもとに育成されたブルジョワが、支配権を握ることによって資本主義体制による文明の建設を図る型である。そこでは、革命を通じて巨大な変革がおこなわれたようにみえながら、すべて、意外に過去の伝統がある。」(141ページ)

 

これらの文章で梅棹さんはブルジョアという言葉を使っていますが、この言葉は本来マルクス・レーニン主義で使われた言葉でプロレタリアート(賃金労働者、無産階級)の反対の意味である資産家などにつけられているのですが、どうしても偏った意味で使われているように思います。

 

例えば梅棹さんが書いている「封建制度のもとに育成されたブルジョワが、支配権を握る」というのは明治維新にも当てはまりますが、はたして明治維新で活躍した大久保利通や伊藤博文をブルジョアと呼べるのでしょうか?

 

それよりもエマニュエル・トッドが指摘したように明治維新は「中産階級」による革命と呼んだ方が意味がすっきりします。

 

もちろん、梅棹さんが書かれているように日本で封建制度が発達していたから、中産階級が生まれたことは確実です。

 

つい最近、『産経新聞』に江戸時代の庄屋さんが残した日記について書かれた記事を見つけたので、それを紹介してみたいと思います。

 

https://www.sankei.com/premium/news/200622/prm2006220001-n1.html

 

この記事によれば享保14年に領主の本多氏が年貢率を決めるために検見衆(役人)を日下村というところに派遣したそうです。

 

はたしてこの本多氏が派遣した役人は明の時代にマテオ・リッチが書いたように村人が「自分の財産を奪われてしまうのではないかと怯えて暮らす」ような状態を作ったのでしょうか?それとも李氏朝鮮を訪れたクロード・ダレが「両班が要求する額を払うまで鞭打たれる」と書いたのと同じ目にあったのでしょうか?

 

「その際、役人らは本業をわずか2時間程度で済ませ、『検見見舞』と称してやってきた町人らと森家のすぐ上の山でマツタケ狩りをし、さらに町人と一緒に森家で豪華な料理に舌鼓を打ち、そのまま泊まり込む鷹揚さだった。」

 

この庄屋の日記を調べた浜田さんは「平身低頭する長右衛門の方が、支配者の武士階級より懐が豊かだった。長右衛門は賄賂や接待を通じ、支配者と持ちつ持たれつの対等な関係に自らを押し上げることに成功していた」と指摘しています。

 

このように、封建制度下では支配者側の武士階級より豊かな長右衛門の存在は許されたのですが、科挙制度をとっていた李氏朝鮮や清朝では許されなかったのです。

 

これが明治維新が成功した要因です。

前回は近代社会を運営していくためには中産階級の力が必要だという話を書いたわけですが、今回は與那覇さんが指摘した宋の時代にできた科挙制度が中国や韓国に存在したかもしれない中産階級にどのような影響を与えたのかをみていきます。

 

評論家の石平さんに『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか』という與那覇さんが読んだら激怒するようなタイトルの本があります。

 

この本の中で石平さんが宋の時代に作られた科挙に合格した超エリートの役人が地方に派遣されてどのようなことをやっていたのかを外国の観察者を通して書かれている部分があるので、それを引用してみます。

 

明王朝の末期に中国に渡ったイタリア人宣教師のマテオ・リッチは「官吏が憎悪や金銭のために、あるいは友人に頼まれて、こういう不正(石平注:収奪)を働くので、チーナ(石平注:チャイナ)では誰もが自分の財産を保つことができず、いつも中傷によって自分の財産がみな奪われてしまうのではないかと怯えて暮らしている。」と書いています。

 

また李朝末期に朝鮮に滞在したフランス人宣教師のクロード・シャルル・ダレは「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。」と描写しています。

 

明王朝の末期と李朝の末期という時代の違いはありますが、中国と朝鮮において科挙に合格したエリート役人がやっていたことは共通しています。徹底的に地方の小金持ちからカネをむしりとることばかりやっていたのでした。

 

その結果、韓国や中国では中産階級が育つことは無かったのです。

 

一方、梅棹忠夫氏が『文明の生態史観』で指摘したように、ヨーロッパや日本では皇帝の独裁体制ではなくて、それぞれの貴族や武士が領地を治める封建制が発達しました。

 

封建制においては、それぞれの領地を領主がどうにか発展させようと努力します。そのおかげで農業や商売で成功する豪農や豪商が生まれてくる可能性があるのですが(ただ豪商や豪農でも封建制においては政治にはタッチ出来ず不満を抱くことになる。)、皇帝の独裁で地方に官吏を派遣する郡県制の国では徹底的に収奪されてほとんど何も残らなかったのが実態だったのです。

 

というわけで、封建制度が中産階級を生み出し、中産階級が作ったのが近代という時代だったのです。