これまで書いてきたことを整理しておきます。
「近代」という時代は、中産階級(ミドル・クラス)が中心になり活躍する社会です。そして日本が明治維新以来、それなりにうまく適応できたのは江戸時代にある程度のミドル・クラスが生まれていたからではないかというのが私の仮説です。
一方日本の隣にある李氏朝鮮や清朝には、日本の江戸期に生まれていた中産階級が存在しなかったから、欧米列強の圧迫に対抗できなかったのではないかという疑問が湧いてくるのです。
これらの問題を解明するために、50年前に書かれた梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』を読み直してみました。驚くべきことに私の疑問はこの本にほとんど書かれていました。
「封建時代を通じて育成され、革命を経て解放された、エネルギーに満ちたブルジョアがいた。」(128ページ)
「具体的には、封建制度のもとに育成されたブルジョワが、支配権を握ることによって資本主義体制による文明の建設を図る型である。そこでは、革命を通じて巨大な変革がおこなわれたようにみえながら、すべて、意外に過去の伝統がある。」(141ページ)
これらの文章で梅棹さんはブルジョアという言葉を使っていますが、この言葉は本来マルクス・レーニン主義で使われた言葉でプロレタリアート(賃金労働者、無産階級)の反対の意味である資産家などにつけられているのですが、どうしても偏った意味で使われているように思います。
例えば梅棹さんが書いている「封建制度のもとに育成されたブルジョワが、支配権を握る」というのは明治維新にも当てはまりますが、はたして明治維新で活躍した大久保利通や伊藤博文をブルジョアと呼べるのでしょうか?
それよりもエマニュエル・トッドが指摘したように明治維新は「中産階級」による革命と呼んだ方が意味がすっきりします。
もちろん、梅棹さんが書かれているように日本で封建制度が発達していたから、中産階級が生まれたことは確実です。
つい最近、『産経新聞』に江戸時代の庄屋さんが残した日記について書かれた記事を見つけたので、それを紹介してみたいと思います。
https://www.sankei.com/premium/news/200622/prm2006220001-n1.html
この記事によれば享保14年に領主の本多氏が年貢率を決めるために検見衆(役人)を日下村というところに派遣したそうです。
はたしてこの本多氏が派遣した役人は明の時代にマテオ・リッチが書いたように村人が「自分の財産を奪われてしまうのではないかと怯えて暮らす」ような状態を作ったのでしょうか?それとも李氏朝鮮を訪れたクロード・ダレが「両班が要求する額を払うまで鞭打たれる」と書いたのと同じ目にあったのでしょうか?
「その際、役人らは本業をわずか2時間程度で済ませ、『検見見舞』と称してやってきた町人らと森家のすぐ上の山でマツタケ狩りをし、さらに町人と一緒に森家で豪華な料理に舌鼓を打ち、そのまま泊まり込む鷹揚さだった。」
この庄屋の日記を調べた浜田さんは「平身低頭する長右衛門の方が、支配者の武士階級より懐が豊かだった。長右衛門は賄賂や接待を通じ、支配者と持ちつ持たれつの対等な関係に自らを押し上げることに成功していた」と指摘しています。
このように、封建制度下では支配者側の武士階級より豊かな長右衛門の存在は許されたのですが、科挙制度をとっていた李氏朝鮮や清朝では許されなかったのです。
これが明治維新が成功した要因です。