前回、日本における無差別殺人は80年周期の最後の20年間に集中していることを書きました。
もし、それが事実であれば厄介な問題を引き起こします。なぜならば、その犯罪の責任を犯罪者個人だけの問題にすることが不可能になってくるからです。
無差別大量殺人が戦後において、ある一定の割合やランダムに行われていれば、犯罪者個人の資質にして良いのかもしれませんが、私たちが生きている今現在にそのような事件が多発していることが事実ならば、その事件が行われる時代性や社会性を無視できないからです。
今回はなぜ現代の日本で犯罪者が無差別殺人を引き起こしてしまうのかを考えてみようと思います。
ここでもう一度精神科医の片田珠美さんの「拡大自殺」の定義を引用してみます。
「人生に絶望し、うまくいかないのは他人のせいだと復讐(ふくしゅう)願望を募らせ道連れにする」
この文章を読んで私が最初に考えたのは、ここには「自己責任」という考えがすっぽり抜けているということでした。
自分がうまくいかないことに対して少しでも自責の念があれば、決してあのような犯罪は起こり得ません。無差別大量殺人は「自己責任」を完全否定しなければできないのです。
では、なぜ犯罪者達はかたくなに「自己責任」を否定して無差別に殺人を繰り返すのでしょうか?
このことについて考えている時に遭遇したのが、メンタリスト・ダイゴという人の暴言問題です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/251019beb25e6df24fd43cb22d956d413b437c46?page=1
これを読んでみるとわかることですが、この人一貫して「自己責任」について語っています。
そうなんです。今我々が生きている現代日本は「自己責任」の追求に最大の価値を与えているのです。現代日本の最高のイデオロギーなのです。
政治もそうです。菅総理のコロナ対策は補償無しの「自粛」ですし、彼の唱えるスローガンの最初にくる言葉は「自助」なのでした。
1990年代の初めにバブル経済が崩壊して日本が不況に陥り日本的経営が根本から否定されるようになってきた1993年に出版された小沢一郎という政治家の『日本改造計画』という本の中にグランド・キャニオンの話が出てきます。
グランド・キャニオンは危険な峡谷ですが、そこには注意を喚起する柵も看板も無く、自分の判断で観光しなければならないというのが、政治家の「自己責任」論のはしりでした。
それが今では日本の中心的な思想になってしまったのです。
そして基本的にanti-social(反社会)である犯罪者達が日本社会の中心である「自己責任」の思想を完全に否定して無差別大量殺人をはじめるようになったのです。
自己責任を強調するごとに無差別殺人が起こるような時代になってしまいました。
高度成長やバブルの時代にそのような事件がなかったのは、その時代の日本社会は自己責任にそんなに重きを置いていませんでした。
日本的経営は無能な社員でも辞めさせることをしない、レイオフをしないことを誇っていたのです。
もちろん、その時代にも自分の人生に絶望した人はいたはずですが、そういう人達は無差別に殺人を犯すことをせず、自分1人で死んでいったのでした。
もう一つ付け加えたいことがあります。
コメント欄で「2016年には植松事件(相模原障害者施設殺傷事件)も起こってますね。」という意見をもらいました。私もこの事件は知っていましたが、「拡大自殺」の定義である「本人の人生に絶望して」という部分からかなり離れていると思ってあえて取り上げなかったのですが、実はこの事件も「自己責任」論から来ているような気がするので書いてみます。
自己責任を強調すればするほど、問題になってくるのは国家や社会が助けてあげなければ生存できない人達の存在です。
自己責任に最大の価値を置いている現代の日本では重度障害者達及びその関係者達は非常に肩身の狭い思いをさせていることは間違いありません。
もちろん辛い思いをさせていることと、障害者を殺すことは決して同じではありません。
そこには「人を殺してはいけない」という倫理があるからです。
植松事件が怖かったのは平気で倫理の壁を超えて社会の要請である「自己責任」を追求できない者を嬉々として抹殺してしまったことなのです。
拡大自殺型の殺人は自己責任を完全に否定することによって起こるのですが、植松事件は「自己責任」社会を信奉し、それを遂行できない人たちを倫理を飛び越えて殺してしまうというものでした。
すなわち、おぞましいことですが、植松事件は「自己責任」という価値観に従順で起こった犯罪である意味「右翼」的な犯罪であるのに対し、拡大自殺型は「自己責任」を否定することによって行われる反体制の「左翼」的犯罪と分類することが可能です。
しかし、どちらの大量殺人も中心には「自己責任」の思想があるために引き起こされていることは間違いないので、この思想を無くすことは絶対に無理でも日本の中心から引きずり落とすことで、これらの犯罪がよって立つ基盤を弱めることができると思うのです。
もうそろそろ、自己責任の追求をやめませんかと菅総理を応援する30%の日本国民に私は問いたい。
終わり。