前回は戦前の日本においてドイツ型の憲法ではなくイギリス型の憲法を用いていれば、あのような結果にはならなかったのではないかということを書きました。

 

ところが、私は最近になってその結論に自信が持てなくなってきました。今回はそのことについて書いてみたいと思います。

 

現在の日本の政治状況を観察していると一概に明治憲法だけ悪かったとは言えないと思うようになってきたのです。私が見る現在の日本の政治状況は次のようなものです。

 

「日本のエリート官庁である財務省が、なぜか必死に『緊縮財政』を推進し、それを日本の代表的な新聞である『朝日新聞』や『日経新聞』が熱心に応援している。そして、一部の自民党の政治指導者はその政策の間違いに気づいているのにも関わらず、それを矯正できず結果として日本を没落に導いている」

 

私が考えるこのような現在の日本の政治状況は戦前の日本とよく似た状態で、上の文章の「財務省の緊縮財政」を「軍部の軍国主義」に直すだけで戦前にもすぐに適用できるのです。

 

これに加えて戦前に日本の軍国主義に対して少数でしたけれどもメディアで反対していたのは石橋湛山や清沢洌を抱えていた『東洋経済新報社』で不思議なことにこの会社は現在でも財務省に反対するリチャード・カッツや経産省の中野さんの文章をしばしば掲載しているのです。

 

このように戦前と似たことが目の前で繰り返されているわけですが、戦前と現在で最も違うことは前にも書いたように、戦前はドイツ型の憲法で首相は軍部を統制できる権力は持っていませんでしたが、現在において総理大臣は財務省を統制できる権力を持っているはずなのです。

 

安倍総理が2回目の政権についた時、彼は金融政策、財政政策、成長戦略で日本をデフレから脱却させると宣言していたので、筆者もようやく日本の衰退を終わらせることができると期待していました。

 

ところが財政拡大を行ったのは最初の1年だけで後は2回も消費税を上げてしまったためにデフレからの脱却はものの見事に失敗してしまいました。

 

現在の岸田総理も総理になる前はプライマリー・バランスの黒字化目標を凍結すると言っていたのに、総理になった後でその公約はいつの間にか消えていました。

 

なぜこのようになってしまうのだろうか。これでは軍部に対して何もできなかった戦前と同じではないのかという疑問が私には湧いてくるのです。

 

そこではたと気づいたことがあります。それは安倍総理が消費税を2回上げても国民からの支持率がそんなに落ちることはなく、必ず40%は超えていましたし、岸田総理が平然と公約を破っても60%以上の支持率を維持しているのです。

 

これはつまり日本国民の大部分が財務省の緊縮路線を支持しているということを示しているのではないか。財政拡大を主張する人たちは緊縮財政を推進する財務省を国民の敵と批判するが、肝心の国民の大半がそう思っていないのだ。

 

そして実は戦前もこれと同じで、イギリスのリーベン教授が言うように日本がイギリスのような憲法を持っていればあのような結果にならなかった可能性もあるが、やはり主要な新聞は軍部の政策に賛成しており、おそらくは国民の多数も政治家よりも軍部を支持していると思われるので結果は同じではなかったのだろうか。

 

やはり日本は戦前も戦後も欠陥はあったが民主主義の国であり、その日本の民主主義が間違った政策を選んでしまうという救いのない答えが浮かび上がってくるのだった。

 

次の参議院選挙でもそうなるのだと私は思う。

 

 

 

戦前に首相の職にあった近衛文麿は『最後の御前会議』という戦後に書かれた手記の中で日米交渉の歴史を振り返って「そもそも統帥が国務と独立しておることは歴代の内閣の悩むところであった」と統帥権の独立が問題であったと指摘しています。

 

その結果「政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやっているのである」と軍部が交渉相手に不信感を与えるために交渉がうまくいかないことを嘆いていました。

 

さらに近衛は「日本国憲法というものは天皇親政の建前であって、英国の憲法とは根本において相違があるのである。ことに統帥権の問題は、政府に全然発言権なく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただ一人である」とまで書いており、陛下が英国を見習って消極的に振る舞われることは平時には問題がないが、和戦を決めるような場面において陛下が消極的であられると物事が決められないと天皇批判と受け取られても仕方がないことまで書いているのです。

 

近衛が言うように確かに明治憲法は統帥権の問題もあったのですが、首相の権限が弱かったこともその欠点の一つでした。

 

近衛が総理大臣の時にアメリカと交渉しようとしていて最大のネックになったのが中国からの撤兵の問題でした。近衛は日中戦争を早期に収められなかった責任を痛感しており、東條陸軍大臣に対して中国から撤兵するように説得を重ねたのですが東條は最後まで首を縦にふらず、閣議で反対して内閣を潰してしまったのです。

 

今から振り返ってもかなり欠陥があったと考えざるを得ない明治憲法ですが、ご承知のようにこの憲法はドイツの憲法をもとに作られたものでした。

 

評論家の伊藤貫さんは『歴史に残る外交3賢人』という本の中で、プロイセンの宰相ビスマルクが1867年にプロイセンとオーストリアの戦争でプロイセンが勝利して北ドイツ連邦というものができた時に起草したのがドイツにおける憲法の始まりで、それは君主制と民主制を混ぜ合わせたものだったと書かれています。

 

具体的に言えば、帝国議会は男子普通選挙で議員が選ばれたが、立法行為は25の北ドイツ諸侯国から選ばれる連邦参議院の同意が必要であった。また外交、軍事に関する権限はプロイセン国王が握り北ドイツ連邦の首相もプロイセン国王が任命したそうです。

 

そして、帝国議会の多数派は首相の提出する立法や財政に対して拒否権を行使することができたが、首相を解任することはできなかったようです。

 

この部分を読むだけでもそれが明治憲法に酷似していることがわかります。

 

このビスマルク憲法について、どのような欠点があったかはイギリスの歴史学者であるドミニク・リーベン教授が第一次世界大戦に至る外交を描いた『炎に向かって』という著作で次のように指摘しています。

 

ビスマルク型憲法は巨大な権力を元首に与え過ぎた結果、ドイツにおいてはビスマルクが宰相であった時期や日本においては明治の元老が存在しているときにおいてはうまく機能した。

 

しかし彼らがいなくなると「権力の中心に空白ができることはやむを得なかった。外交や軍事及び国内政治を調整することに失敗したことがドイツにおける1914年、日本における1941年の災害をもたらしたのだ。」と記しています。

 

ではビスマルクが宰相を解任されてからドイツの憲法が齟齬をきたした具体的な例はどのようなものだったのだろうか。

 

このことについて、第一次世界大戦について書かれたもので最近に最も話題となったオーストラリアの学者クリストファー・クラークの『夢遊病者たち』という本から取り上げてみます。

 

第一次大戦に至る過程で、イギリスとドイツが対立を深めていった原因にイギリスの海洋覇権にドイツが挑戦していった建艦競争の問題がありました。

 

この時ドイツの宰相であったのはベートマン・ホルヴェークで彼はイギリスとの関係を重視しており、建艦競争にはあまり興味はありませんでした。しかし、彼には日本の場合と同様にそれを止める力を持っていなかったのです。

 

それを持っていたのは君主のヴィルヘルム2世であり、彼はアメリカ人であるアルフレッド・マハンの『海上権力史論』を読んで誰よりも感銘を受け海軍大臣にもなったティルピッツと組んでドイツ海軍の大軍拡を始めたのです。

 

クラークの本ではティルピッツは Imperial Naval Office(帝国海軍省)を拠点にしていたと書いているが、調べてみたらこの機関の最終的な責任者は宰相にあるようだ。

 

ということは宰相の意志に反して海軍は軍拡を進めたことになる。一方Admilalty(海軍本部、日本では軍令部にあたる)はティルピッツの建艦競争には反対で、兵員の教育に費用を割くべきだと穏健的なことを主張していた。

 

ところが海軍本部の責任は君主のヴィルヘルム2世にあったので、クラークが書いていることが事実ならねじれた現象が起きていたことになる。

 

つまり建艦競争を主張しているカイザーが指揮する海軍本部が建艦競争に反対で、建艦競争に否定的だった宰相ホルヴェークの指揮下にある海軍省が建艦競争に邁進していたことになる。

 

これは日本の帝国陸軍の日中戦争の初めの時に良く似ている。この時は天皇の指揮下にある参謀本部の石原莞爾や多田駿が早期に中国と講和すべきだと主張していたが、首相のお膝元である陸軍省の杉山元などが強硬策を主張していた。

 

国民の負託を受けた国会に対して責任を負う日本の場合だと首相、ドイツの場合だと宰相に一元的な権力が存在しないと国家の権力関係はバラバラになってまとめることができないとリーベン教授は指摘していたが、それは正しかった。

 

結局、宰相であったホルベーグは建艦競争に反対だったのにそれを止められず、日本の首相の近衛文麿も中国からの撤兵を主張していたのにそれが叶わなかったのだった。

 

カナダの学者であるマーガレット・マクミランは『平和を終わらせた戦争』という本で、ドイツにおいて政治のリーダーは責任を放棄するだけではなく、軍部が何を考え、何を計画しているかさえわからなかったと書いて第一次大戦後にベートマン・ホルベーグ元宰相が「私が就任時に戦争の会議が開かれたことがなく、政治が軍事に介入することが不可能だった」と語っていたことを記しています。

 

近衛も手記に次のように書いてマクミランと同じことを書いています。

 

「今度の日米交渉に当たっても、政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやているのである。しかもその準備なるものがどうなっておるのかは、我々に少しもわからぬのだから、それと外交の歩調を合わせるわけにはいかぬ。」

 

やはり戦前の日本の失敗は伊藤博文ら明治の指導者たちがドイツの憲法を真似たことにあったのではないかということを今まで書いてきたのですが、最近この考えに疑問を持ち始めたのでそのことについて次回に書いてみます。

 

 

 

 

エマニュエル・トッドの『第3次世界大戦はもう始まっている』という本を読み終わったので感想を書いてみたいと思います。

 

この本は4章に分けられており、1章目は雑誌『文藝春秋』5月号に載ったもので、他の2章はトッドが以前に外国でインタビューしたものが載せられており、彼の最新の論考は4章でしか読めませんが、相変わらず鋭い批評をしているのでそんなに不満はなかったです。

 

だからこの本の感想は主に第4章からのものになります。

 

トッドは「この戦争は、『ウクライナの中立化』という当初からのロシアの要請を西側が受け入れていれば、容易に避けることができた戦争でした。」と語っていて、これについては私も本当にそう思う。

 

キッシンジャーなどもウクライナがクリミアを奪われる前からそのように言っていたのに、誰もそれを聞かなかった。ロシアに関する歴史の本を数冊読めば、ウクライナがロシアにとってどれほど重要だったかは簡単にわかったはずである。

 

さて、今回の戦争でトッドにとって最も意外だったのは、ウクライナの兵士が勇敢に戦ってロシアの攻撃を食い止めていることだった。

 

確かに2014年のロシアのクリミア侵攻で何もせずに半島を奪われてしまったことを考えるとほとんどの人がウクライナ人の激しい抵抗を予想できなかったのではないか。

 

もちろん、これにはウクライナ人の頑張りもあるのだが、トッドによればイギリスとアメリカが2014年以来いかにウクライナの軍を再建し、鍛え上げてきたのかという証明でもあったようだ。

 

そして、そのような重大なウクライナの内部情報をヨーロッパの主要な大国であるフランスやドイツが全く理解していなかったために、戦争が始まるとこの2カ国は慌てまくっているという。

 

このことからトッドは「軍事的な意味での〝真のNATO〟とは、アメリカ、イギリス、ポーランド、ウクライナ、そしておそらくスウェーデンから成り立っています。」とまで言うのだった。

 

実はこのようになったのにはトッドはここでは語っていないが、それなりの理由があったと私は思っていて、例えばイラク戦争の時にフランスとドイツは反対していて、それに怒ったラムズフェルド国防長官から「古い」ヨーロッパと批判されていた。

 

またロシアがジョージアに侵攻する前にも、フランスとドイツはジョージアとウクライナのNATO加盟に反対してブッシュ(息子)大統領と対立していた。

 

こういうことが重なっていたから、アメリカはロシア嫌いのポーランドやスウェーデン、イギリスなどとは協力していたが、フランスやドイツとはあまり真剣に相談しなかったのかもしれない。

 

本来フランスとドイツがしっかりと組んでアメリカに対抗したなら、ヨーロッパ大陸においてアメリカが自分の好きなようには行動できないはずだが、フランスはともかく、残念ながらドイツはトッドが言うように日本と同じ「保護領」だから実質的にはフランス一国でアメリカに対峙することになり、それでは残念ながら力不足だったのだ。

 

その結果アメリカの意向が過剰に反映されてヨーロッパの情勢が決定していくのだった。

 

ロシアのプーチン大統領はしばしば外国の軍隊を受け入れている国はちゃんとした独立国ではないと指摘していて、これはある意味で正しいと私は思っていたから、彼はウクライナを侵略しないで外国軍撤退キャンペーンなどでもやっていれば日本人の一部もそれに対しては賛成しただろう。

 

しかし結局プーチンはウクライナを「保護領」にしようと軍事力を発動してしまい、せっかく正しいことを主張していたのに全くの無駄にしてしまったのだ。

 

最後にトッドはこの戦争は実際にはロシアとアメリカによるものなので、「長期戦」「持久戦」になることを予想しています。