相撲と赤穂浪士 熊本藩三代藩主 細川綱利 | 墓守たちが夢のあと

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細川家歴代の墓(京都 高桐院)

 

細川綱利の墓。左側一番奥

 

 熊本藩三代藩主・細川綱利は、寛永20年(1643)に二代藩主・細川光尚(光利)の長男として生まれる。
 慶安2年(1649)に父・光尚が死去した際に綱利はまだ6歳と幼なく細川家は改易の危機に立たされるが、家臣が奔走する一方、光尚が幕府のいかなる決定も受け入れると遺言した事が好印象を与え、綱利への相続が認められている。綱利は徳川家康の長男信康の曾孫であり、将軍徳川家光の乳母である春日局とゆかりの深い明智光秀の子孫であるという関係性も考慮されたのかもしれない。
 寛文6年(1666)に弟利重へ3万5,000石を分与し肥後新田藩を立藩させ、宝永3年(1706)に嫡男の吉利が亡くなると、利重の次男、利武(宣紀)を養子に迎え跡継ぎとしている。
 綱利は横綱免許発行権などを持つ相撲の宗家、吉田司家を熊本藩に招き、以降、吉田司家は昭和の時代に相撲界と絶縁するまで熊本から相撲界を取り仕切っていく。
 また、細川家の祖である細川幽斎(藤孝)は、囲碁の愛好家として知られているが、綱利も囲碁好きであったと言われている。碁聖と讃えられる本因坊道策と乳兄弟(道策の母が綱利の乳母)という関係もあり囲碁界とは関わり深かったようだ。
 綱利の時代である元禄16年1月24日(1703年3月10日)に、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件が発生し、浪士たちは処分が決まるまで4ヶ所の大名家に分けて預けられているが、浪士たちを率いた大石内蔵助は16名の浪士とともに現在の港区高輪一丁目にあった細川家の下屋敷に預けられている。
 この時、細川家では浪士を丁重に扱い世間から賞賛を浴びているが、罪人としてぞんざいに扱った家は非難にさらされ対応を改めざるを得なかったという。
 浪士たちをどうするか幕府での話し合いは紛糾するが、最終的に全員切腹と決まり、元禄16年2月4日(3月20日)に預けられていた各屋敷にて切腹している。