内閣総理大臣 佐藤栄作 | 墓守たちが夢のあと

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佐藤栄作の墓

 

墓誌

 

 杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所に、第61・62・63代内閣総理大臣・佐藤栄作のお墓があります。
 佐藤は、明治34年(1901)現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業を営む佐藤秀助の三男として生まれます。
 次兄の岸信介は、婿養子であった父の実家・岸家の養子となり、官僚を経て、第56・57代 内閣総理大臣に就任しています。
 佐藤は、東京帝国大学卒業後、大正13年(1924)に鉄道省へ入省。鉄道省を選んだ理由は兄の岸が農商務省でエリートコースを進んでいたため、何かと比較されるのが嫌だったからと言われています。
 主に鉄道畑を歩み、監督局長に就任すると全国の鉄道・バス会社の整理統合を図るため陸上交通事業調整法の成立に尽力。また東京の地下鉄運営をめぐり私鉄二社の競争が激化する中、営団地下鉄を誕生させ事業の統合を実現しています。
 またプライベートでは従妹である佐藤家本家の娘、寛子と結婚し、本家の婿養子となります。
 佐藤の推し進める政策には反発も多く、昭和19年(1944)に大阪鉄道局長に就任しますが、これは事実上の左遷だったそうです。しかし皮肉なことに、この時期本省を離れていたことで戦後GHQによる公職追放を免れる結果となります。
 昭和22年(1947)運輸次官就任を最後に翌年退官すると吉田茂率いる民主自由党へ入党。遠縁に当たる吉田によって第二次吉田内閣では非議員ながら内閣官房長官として入閣を果たします。
 昭和24年(1949)の総選挙で初当選した佐藤は、新たに結党した自由党で幹事長などを歴任し確実にキャリアアップを図っていきますが、昭和29年(1954)『造船疑獄』により多くの逮捕者が出る中、検察は佐藤を収賄罪で逮捕する方針を固めます。
 これに対し吉田首相は法務大臣・犬養健犬養毅の息子)に指揮権を発動させ逮捕を中止させるという手段に出ています。佐藤は政治資金規正法違反でも在宅起訴されますが「国連加盟恩赦」によって免訴となっています。
 なお犬養は当初、指揮権発動を拒否していたそうですが、佐藤は吉田に対して法相を罷免し新大臣のもとで指揮権発動を行うよう要求したため、犬養はやむをえず指揮権発動した後、責任をとって大臣を辞任。指揮権発動により吉田内閣は政局不安定となり退陣する一因となっています。
 吉田内閣退陣により、保守合同の自由民主党が結成されますが、佐藤は吉田と行動を共にし参加を拒否。鳩山一郎の引退に伴いようやく入党すると党総務会長などを歴任し、首相となった兄の岸信介を支えていきます。
 続く池田内閣でも要職を務めた佐藤は、自らの政権構想の策定など次期総理総裁候補としての準備を着々と進め、昭和39年(1964)に3選を目指す池田勇人に対抗して総裁選挙に出馬。選挙戦は現金が飛び交う熾烈なものでしたが、池田が現職の強みを活かして辛勝。佐藤は非主流派として冷遇されることを覚悟したと言います。
 しかし、総裁選挙から僅か三ヶ月後に池田は病のために退陣。党内有力者による調整会議を経て池田は佐藤を後継者に指名します。なお池田には当初、副総理の河野一郎(河野太郎行政改革担当大臣の祖父)に政権を譲る密約があったそうですが、それを察知した吉田茂、岸信介、佐藤が池田のもとへ押しかけ佐藤指名を了承させたと言われています。
 こうして党総裁および内閣総理大臣に就任した佐藤栄作ですが、手堅く無難な政治スタイルは地味であまり目立たないため、内閣支持率は決して高いものではなかったそうです。さらに昭和41年(1966)に自民党を中心に相次いで不祥事が発覚し「黒い霧事件」と呼ばれる政治不信により、国民の自民党への信頼は失墜していきます。
 ところが首相となって間もない頃に、池田元首相や、その後継を争った河野が亡くなり、有力な対抗勢力がいなくなった事と、「いざなぎ景気」と呼ばれる空前の好景気に支えられ、佐藤政権は5度の国政選挙と3度の総裁選を乗り越え、約7年8ヶ月(2798日)におよぶ異例の長期政権となります。この記録は連続在職期間としては令和2年に大甥(岸信介の孫)の安倍元首相に抜かれるまでは歴代一位。トータルの在職期間では現在のところ歴代三位となります。
 在任中、日韓基本条約批准を皮切りに、沖縄返還、非核三原則の表明など数々の実績を残した佐藤首相は、一方で田中角栄、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘ら、派閥にとらわれることなく将来の総理総裁候補を政府や党の要職に抜擢して競わせ「人事の佐藤」と評されていたそうです。
 昭和45年(1970)総裁選で4選を果たした佐藤は、早々に次は無いと表明したため、後継争いが激化し求心力が低下していきます。
 佐藤自身は、次の総理総裁は福田赳夫という考えを持っていましたが、昭和47年(1972)5月、急速に力を付けてきた田中角栄が、佐藤派の大部分を引き連れて田中派を結成。
 佐藤は6月の通常国会が閉幕した翌日に退陣表明を行いますが、記者会見で、新聞は自分の発言を、真意とは違う形に変えて記事にするから記者達とは話さない。テレビカメラに向かい国民へ直接語りかけたいと主張。中断を挟み会見が再開されると反発した記者達が、話し始めた佐藤の言葉を遮り全員退席するという異例の記者会見となります。そして、その翌月に行われた総裁選では、田中角栄が福田を破り総理総裁に就任しています。
 昭和49年(1974)佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献が評価され、日本人初のノーベル平和賞を受賞します。
 しかし後に公開された米公文書によると、佐藤は「核兵器をもたない、つくらない、もちこまない」という非核三原則を表明する一方で、沖縄返還に際しては、有事の際に米軍による核兵器の持ち込みを容認する密約をしていたことが判明しています。
 昭和50年(1975)佐藤は築地の料亭で、政財界人らとの会食中に脳溢血で倒れて亡くなります。葬儀は日本武道館にて大隈重信以来の「国民葬」として行われています。


東京都杉並区永福1-8-1 築地本願寺和田堀廟所