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犬養毅の墓
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以前紹介した青山霊園にある第29代内閣総理大臣・犬養毅の墓石には、毅の三男にあたる犬養健の名も刻まれています。
東京帝国大学哲学科中退後、白樺派の作家として活動した健は、昭和5年(1930)の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で東京2区より立候補し初当選、父・毅の死後は、その地盤の岡山を選挙区とし政治活動を続けます。健は、父の犬養毅が清朝期の中国革命活動を支援し、孫文らと交流を深めていたことから、「五・一五事件」で父が暗殺されると、その遺志を継ぎ、泥沼化する日中戦争において和平工作に全力を注いでいます。
昭和27年(1952)、第4次吉田内閣に法務大臣で初入閣した健でしたが、昭和29年(1954)に政府出資の計画造船の割り当てをめぐって起こった贈収賄事件「造船疑獄」で、政府内の圧力により、後に首相となる佐藤栄作など一部の政治家を救う目的で指揮権を発動。翌日に法務大臣を辞任し事実上政治生命を絶たれています。
政界引退後に、作家活動を再開しますが、指揮権発動の影響で日本ペンクラブへの加入を断られていたそうです。
犬養健は昭和35年(1960)に亡くなりますが、その子供には俳優の奥田瑛二の妻でタレントの安藤和津(妾の子で後に認知)がいます。
青山霊園 1種ロ8号1側14