日本初の人類学者 坪井正五郎 | 墓守たちが夢のあと

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坪井正五郎夫妻の墓

 

坪井正五郎

 

 日本の考古学,人類学のパイオニアである坪井正五郎は、蘭方医・坪井信道の孫で、奥医師・坪井信良の息子として文久3年1月5日(1863年2月22日)に、両国矢之倉(東日本橋)で生まれます。
 東京大学で動物学を専攻しますが、在学中から考古学・人類学に興味をもち、明治17年(1884)に日本人類学会の前身「じんるいがくのとも」を創設。その二年後には『人類学会報告』を発刊しています。
 明治22年(1889)から三年間、イギリス、フランスへ留学し人類学的研究を行なった坪井は、帰国後帝大理科大学教授となり、新設の人類学講座を担当。同年蘭学者箕作秋坪の長女・直子と結婚しています。
 草創期の考古学の指導者として活躍していた坪井ですが、大正2年(1913)にロシアのサンクトペテルブルグで開催の第5回万国学士院連合会総会に出席中客死しています。
 なお、坪井と言えばアイヌ民族の神話に出てくる小人、コロボックルは、日本の石器時代にこの地に住んでいた先住民族であるという説を唱えたことでも知られています。
 また、最近では俳優の大泉洋にそっくりだという事でも話題になっています。


染井霊園 1種イ8号6側