豪商 戸谷半兵衛光寿(戸谷双烏) | 墓守たちが夢のあと

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安養院山門

 

戸谷半兵衛光寿の墓

 

墓石に刻まれた光寿の名

 

本庄市立歴史民俗資料館に掲示されていた光寿の説明パネル

 

「熈代勝覧」に描かれた島屋の様子(黒い壁の店) 。写真右橋の路地を挟んだ建物が越後屋(三越)

 

 戸谷半兵衛は江戸時代に中山道最大の宿場・本庄宿(埼玉県本庄市)で太物、小間物、荒物などを商う「中屋」を経営していた豪商で、歴代当主は戸谷半兵衛の名を襲名していますが、屋号にちなみ中屋半兵衛とも呼ばれていました。
 江戸の日本橋近くに支店「島屋」を持ち、京都にも支店を置くなど広い人脈をもち、商売だけでなく、慈善事業や文人の支援にも力を入れていたことでも知られています。
 なお、日本橋の「島屋」については東京メトロ「三越前」駅地下コンコース(A3出口付近)の壁面に展示されている、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通りの様子を克明に描いた絵巻「熈代勝覧」の中に描かれていることが分かりました。
 戸谷家は大名へも多額の貸し金も行っていましたが、その返済が滞ったことで四代目光敬の頃(安政5年頃)に幕府への御用金納入に支障をきたし家財闕所等の処分を受けますが、その後も商売を続け明治期には回復していったと言われています。
 「中屋」を最も隆盛に導いた三代目戸谷半兵衛光寿は安永2年(1774)に生まれ父の死亡により2歳で家業を継承。祖父と義父の後見により商才を開花させ莫大な財力を蓄えています。
 文化3年(1806)に公儀へ融通金千両、文化13年(1816)には不況におちいった足尾銅山への支援で千両を上納し困窮者の救済にあたるなど様々な慈善事業を行い、名字帯刀を許されています。
 また、10代半ばより俳句を学び、高桑蘭更や常世田長翠に師事して紅蓼庵双烏と号します。そのため光寿は通称、戸谷双烏とも称されています。
 師匠の常世田長翠は双烏に招かれ本庄宿に8年間滞在。本庄宿は当時の中央俳壇の中心地となり、双烏(光寿)の門下生は、関東地方だけで数千人いたと言われ、その影響力は絶大でした。門人ではありませんが小林一茶も句集を配布するにあたり光寿の支援を受けています。
 その他、囲碁家元の本因坊丈和は、少年の頃「中屋」で丁稚奉公していたそうで、丈和の碁の才能を見抜いた光寿は江戸の支店「島屋」へ転勤させ、そこから本因坊家へ通わせ才能を開花させたそうです。
 一説には、身分の低い家に生まれたものの、幼いときから碁の才能があった丈和に、囲碁界を背負うのにふさわしい家柄を与えるため、光寿が丈和を預かったとも言われ、丈和が本因坊家跡目となるために公儀へ提出した親類書では、戸谷姓を名乗り光寿の親類と記載されています。光寿と丈和は、丈和が本因坊となった後も交流を続けていて、その手紙が残されています。
 光寿は嘉永2年(1849)に76歳で亡くなり、菩提寺の安養院に葬られています。


戸谷半兵衛光寿の墓:埼玉県本庄市中央3-3-6 安養院

 

本庄市立歴史民俗資料館:埼玉県本庄市中央1-2-3