護国寺 子爵 清岡公張 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

護国寺惣門

 

 多くの著名人の墓所として知られる東京都文京区大塚五丁の護国寺は、天和元年(1681)徳川綱吉は母、桂昌院の祈願寺として建立。
 惣門は江戸時代の五万石以上の大名屋敷の門の特徴がよく現れているそうです。
 

 

清岡公張の墓

 

 幕末期に勤王の志士として活躍し、明治以降官僚となった子爵・清岡公張は、天保12年(1841)土佐藩郷士の家に生まれます。
 文久年間に上京し諸藩の勤王の志士と交流した公張は、藩命により三条実美の衛士を務め、文久3年(1863)「八月十八日の政変」による「七卿落ち」で三条実美らに同行し長州藩へ逃れています。
 「禁門の変」では長州藩に従い奮戦しますが敗北し再び長州に退却。その後、太宰府に移った三条に従い衛士を務めています。
 なお、公張の兄である清岡道之助は、この時期、山内容堂による土佐勤王党の弾圧で投獄された武市瑞山を救出するために集結した「野根山二十三士」の首領で、藩に捕えられ処刑されています。
 大政奉還により復権した三条らに随行し上洛した公張は、新政府に出仕し、地方長官,元老院議官,宮内省図書頭,枢密顧問官を歴任。その功により子爵を授けられ、貴族院子爵議員を務めています。
 明治23年(1890)に錦鶏間祗候となり、翌年、勲一等瑞宝章を受章。明治34年(1901)に60歳で亡くなり従二位が贈られています。


東京都文京区大塚5-40-1 護国寺