気象学者 野中至と千代子 | 墓守たちが夢のあと

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野中家の墓

 

墓誌

 

 野中至(本名:到)は、明治から昭和期にかけて活躍した気象学者で、妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られています。
 慶応3年(1867)福岡藩士の家に生まれた至は、医者を志して大学予備門(東大)に入りますが、在学中に気象学に興味を持ち、気象予報向上のため、富士山頂越冬気象観測の設立を計画して中退。
 明治28年(1895)2月に準備のため冬季登山を行い、同年8月より私財を投じて山頂に約6坪の観測所を建設。建設には中央気象台の技師らも協力し、10月からは千代子夫人と二人での観測活動を開始しています。
 しかし、12月に弟の野中清らが慰問に訪れた際、夫妻は高山病と栄養失調により体調を崩していて歩行も困難な状態。知らせを聞いた中央気象台は救援隊を派遣し二人を下山させます。8合目付近で至は意識不明に陥りマッサージで蘇生するという、正に命からがらの生還だったそうです。
 当時の状況について至は、著書「富士案内」にて生々しく報告。また医学者の三浦謹之助はドイツの医師・ベルツと共著で「富士山頂の脚気」という論文を発表しています。
 挫折したものの野中夫婦の挑戦は大きな反響を呼び小説や劇になっています。橋本英吉原作の「富士山頂」は昭和20年代と30年代の2度映画化され、千代子を主人公とした新田次郎の小説「芙蓉の人〜富士山頂の妻」は昭和40年に連載。度々テレビドラマ化されています。
 至は越冬観測断念後も絶えず登山を繰り返しと観測を続ける一方、本格的な観測所建設のため「富士観象会」を設立し理解活動と資金援助を呼びかけます。
 その事業は中央気象台に引き継がれ、昭和7年(1932)に外輪山南東の東安河原に中央気象台臨時富士山測候所が開設。昭和11年(1936)には日本最高峰の剣ヶ峯に「富士山頂気象観測所」として移設し貴重なデーターを提供していきます。
 野中千代子は、大正12年(1923)に亡くなり、至は昭和30年(1955)に亡くなっています。


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