宮内大臣 田中光顕 | 墓守たちが夢のあと

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田中光顕の墓

 

田中光顕

 

 宮内大臣などとして活躍した明治時代の政治、田中光顕は天保14年(1843)土佐藩下級武士の子に生まれ、武市瑞山に師事し「土佐勤王党」に参加します。
 文久3年(1863)「八月十八日の政変」で朝廷内の尊王攘夷派が一掃されると、土佐藩では前藩主・山内容堂による土佐勤王党への弾圧が始まり、謹慎処分となった田中は同志と共に脱藩。長州藩へ逃れて高杉晋作に師事しています。
 長州征伐で長州藩の軍艦・丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った田中は、その後、中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。慶応3年(1867)に中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると陸援隊の副隊長として「鳥羽・伏見の戦い」で活躍します。
 明治に入ると岩倉使節団の随員として欧米を視察。西南戦争では征討軍会計部長として活躍した後、陸軍省会計局長、陸軍少将。さらに元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長など要職を歴任し、明治20年(1887)に子爵として華族に列します。
 明治31年(1898)から約11年間にわたりに宮内大臣を務めた田中は、天皇親政派の宮廷政治家として大きな影響力を持ち、明治40年(1907)には伯爵に陞爵。
 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集の出版や、武市瑞山の遺族の庇護など、維新の志士の顕彰活動に尽力。多摩聖蹟記念館、常陽明治記念館(現、大洗町幕末と明治の博物館)、高知青山文庫の建設に関わります。
 昭和11年(1936)に起こった「二・二六事件」では、事件を起こした青年将校らの助命願いに動きますが、願いは叶わず、田中は昭和14年(1939)に静岡県蒲原町の別荘にて95歳で没しています。


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