初代司法大臣 山田顕義 | 墓守たちが夢のあと

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山田顕義の墓

 

墓誌1

 

墓誌2

 

山田顕義

 

 弘化元年(1844)に長州藩士山田七兵衛の長男として生まれた山田顕義は、安政4年(1857)14歳の時に松下村塾に入門。その後、久坂玄瑞らと行動を共にしますが京都の「禁門の変」で敗走しています。
 第二次長州征伐で軍功を上げた山田は「鳥羽・伏見の戦い」で長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名ほどの藩兵を統率し勝利に貢献しています。
 維新後は、岩倉使節団に加わり欧米諸国を視察。西南戦争での功により陸軍中将に昇進した後、第一次伊藤博文内閣のもとで司法大臣に就任し法典編纂に尽力、「法典伯」と称されます。
 また、教育を重視した山田は、明治22年(1889)に日本大学の前身である「日本法律学校」を創設。次いで「國學院」を設立しています。
 明治25年(1892)旧藩主毛利敬親の銅像起工式へ列席のため帰郷しますが、その帰途生野銀山で急逝。享年49歳でした。


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