鍵屋の辻の決闘 岩本孫右衛門 | 墓守たちが夢のあと

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光明寺山門

 

岩本孫右衛門の墓(右)

 

 以前、鳥取市の、日本三大仇討の一つ「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣豪・荒木又右衛門と、渡辺数馬の墓について紹介させていただきましたが、鳥取市には決闘に参加した又右衛門の門弟、岩本孫右衛門の墓もあります。
 「鍵屋の辻の決闘」は、寛永7年(1630)岡山藩士・河合又五郎が、同僚の渡辺源太夫を殺して江戸へ逃走し旗本・安藤家に匿われたのが事件の発端。引渡しを求める岡山藩と、拒否する安藤家の対立は、やがて他の外様大名や旗本を巻き込む大騒動へと発展します。
 対応に苦慮した幕府は、岡山藩主・池田忠雄の急死に乗じ、跡を継いだ幼少の光仲に鳥取への国替を命じて藩の力を削ぎます。
 池田忠雄の遺言で仇討ちを命じられた源太夫の兄・渡辺数馬が助太刀として頼んだのが義兄(姉の夫)荒木又右衛門。又右衛門は柳生宗矩の門人で郡山藩で剣術指南役を務める剣の達人でした。
 荒木又右衛門の門人・岩本孫右衛門(幼名:六助)は、慶長2年(1597)因幡国高草郡岩井郷岩本村(現 鳥取市金沢)に生まれます。岩本家の先祖は尼子家の武将・山中鹿之助の配下であったと言われています。
 六助は父の孫右衛門に連れられ、共に大和郡山の荒木又右衛門に入門。やがて父の名を継ぎ孫右衛門を名乗ります。
 孫右衛門は、渡辺数馬、荒木又右衛門に、同門の川合武右衛門と共に同行し、幕府により江戸を追放された又五郎を次第に追い詰めていきます。
 一行は寛永11年(1634)ついに伊賀国上野の鍵屋の辻で又五郎一行に切り込み仇討ちを達成。なお、俗に又右衛門の「36人斬り」と言われていますが、又右衛門がこの時実際に斬ったのは2人だけだったそうです。
 決闘で川合武右衛門は亡くなったものの、数馬、又右衛門、岩本孫右衛門は人々から賞賛。しかし幕府を気にして処遇がなかなか決まらず、4年間決闘地の津藩・藤堂家に預けられ、ようやく鳥取藩が引き取ることが決定。孫右衛門にとっては思わぬ形での鳥取への帰郷となったのです。
 一行は、寛永15年(1638)8月12日に鳥取に到着しますが、その16日後に又右衛門が突然死亡。そのため幕府との関係を恐れた鳥取藩による毒殺説や、生存隠匿説など様々な憶測がなされています。
 一方、岩本孫右衛門は、鳥取藩に直参として取り立てられ、寛文8年(1668)に亡くなっています。享年72歳。
 岩本家は、その後も鳥取藩に仕え、九代隠(孫右衛門政勝)は幕末期に鳥取藩陸軍奉行を務めるなど活躍しています。


鳥取県鳥取市寺町153 光明寺

 

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