荒木又右衛門の子孫 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

荒木又右衛門の墓

 

荒木家の墓所

 

何代目かの荒木又右衛門

 

七代目荒木又右衛門(隠居後節也)

 

荒木神社

 

 日本三大仇討の一つ「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣豪・荒木又右衛門は、事件後の4年間決闘地である津藩・藤堂家に預けられ、ようやく鳥取藩が引き取ることとなります。
 そして、寛永15年(1638)8月12日に鳥取に到着しますが、その16日後に突然死亡。そのため幕府との関係を恐れた鳥取藩による毒殺説や、生存隠匿説など様々な憶測がなされますが真相は闇の中です。
 ところで、鳥取で僅かしか暮らしていない又右衛門ですが、藩としては世間の注目を浴びた荒木家を断絶させる訳にはいかなかったのでしょう。荒木家は養子を迎えて鳥取藩士として存続していくこととなります。
 鳥取市の玄忠寺にある荒木又右衛門の墓の垣根で隔てた隣りに荒木家の墓所があります。荒木家当主の多くは「又之進」を経て「又右衛門」を名乗ったようで、荒木家の墓所には「荒木又右衛門」の名が刻まれた墓石が複数見られます。
 又右衛門の死後、家督を継ぎ、二代目となった荒木平之丞は、鍵屋の辻の決闘で亡くなった河合武右衛門の息子で、慶安元年に200石を与えられ、御両国人奉行と代官を20年勤めています。(墓石は未確認)
 また、七代目の荒木又之進(後に又右衛門)は文政10年に跡目を相続。石高は600石。御用人などを歴任し、藩主・池田慶行に厚く信頼されていたそうで、後に900石に加増されています。
 嘉永元年(1848)藩主慶行が亡くなった際、鳥取藩は幕府の指示により、加賀藩主前田斉泰の四男、慶栄(将軍徳川家慶の甥)を藩主に迎えますが、これを画策したのが荒木又之進ではないかという説があります。
 しかし、新藩主・池田慶栄は在任2年足らず、初のお国入りの帰途、突然なくなってしまい、そのため池田家以外から藩主を迎えたことに反発した家臣に暗殺されたという噂が流れています。
 七代目荒木又之進(又右衛門)は、慶行公の葬儀が終了した後に隠居、その後、節也と名乗っています。
 鳥取市元町の黒住教鳥取大教会所は、元々荒木家の屋敷があった場所だそうです。敷地内には又右衛門を祀る「荒木神社」があります。


玄忠寺:鳥取県鳥取市新品治町176
黒住教鳥取大教会所:鳥取県鳥取市元町125