宮地茂平の墓(左側)
明治14年(1881)日本政府の管理から離れて自由人として生きたいと「日本政府脱管届」を提出し投獄された人物がいます。
万延元年(1860)土佐藩士の家に生まれた宮地茂平は、同郷の板垣退助らが結成した「自由党」に参加し、国会開設を訴えて各地で演説会を開催していきます。
水戸を拠点に定めた宮地は、水戸最大の民権政社「水戸法学館」の集会で講師を務めるなど精力的に活動を行いますが、政府の圧力により集会が中止に追い込まれるなど活動は順調ではありませんでした。
そうした状況が続く明治14年11月8日、同じ自由民権運動家・栗村寛亮と連名で、太政大臣三条実美あての「日本政府脱管届」が茨城県庁に提出されます。
内容は以下のとおり。
「日本政府脱管届」
謹で申上候、私共儀
従来より日本政府の管下にありて、法律の保護を受け、法律の権利を得、法律の義務を尽し居りたれども
現時に至り、大に覚悟する所ありて日本政府の管下にあるを好まず。
今後法律の保護を受けず、法律の権利を取らず、法律の義務を尽さず。
断然脱管致度、御認可奉仰候
以 上
地球上自由生 栗村寛亮・宮地茂平 明治十四年十一月八日
日本政府太政大臣三条実美殿
前代未聞の届出で世間は騒然としますが、当然認められるはずもなく、宮地は裁判で懲役100日に処せられることとなります。
しかし、法整備が進んでいない明治前半の出来事でもあり、判決は「脱管届」の可否に触れることなく、法的根拠は曖昧なまま処罰ありきで行われたとも言われています。
その後、宮地は東京で法律事務所を開きますが、度々「あの日本政府脱管届の宮地か」と言われるほど、世間に与えた衝撃は強かったようです。
宮地は大正7年(1918)に亡くなっています。享年59歳。
東京都豊島区染井霊園 一種イ4号2側