桑名藩知事 松平定教 | 墓守たちが夢のあと

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松平定教の墓

 

松平定教

 

 伊勢桑名藩の知藩事を務めた松平定教(さだのり)は、安政4年(1857)桑名藩主松平定猷の長男として生まれます。
 安政6年(1859)に父が亡くなった際、定教はまだ3歳で、庶子でもあったため、高須城主松平義建の息子、定敬が養子として家督を継ぎ、定教は定敬の養子となっています。
 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで定敬は徳川慶喜に従い新政府と敵対しますが、国元にいた定教は、家老らに擁立され新政府に降伏し蟄居しています。
 定教の行動は新政府に一定の評価を得ますが、養父の定敬が徹底抗戦していたため桑名藩の存続判断は保留。明治2年(1869)に定敬が新政府に降伏し、ようやく藩は減封のうえ存続が許され、定教が家督を継いで知藩事となります。
 明治4年(1871)廃藩置県により知藩事職を免官された定教は、定敬と共に横浜市学校(修文館)、ブラウン塾で英語を学び、明治7年(1874)には定敬と共にアメリカへ留学。ニュージャージー州のラトガース大学で学んでいます。
 明治11年(1878)に帰国した後、外務省の書記官としてイタリア公使館で働き、明治17年(1884)の華族令で子爵となった定教は、明治21年(1888)には式部官となり、明治32年(1899)に死去。享年43歳。家督は定敬の四男・定晴が婿養子となり継いでいます。 


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