桑名藩主 松平定敬 | 墓守たちが夢のあと

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 松平定敬の墓

 

松平定敬

 

 幕末期の桑名藩藩主・松平定敬(さだあき)は、高須城主松平義建の息子で、尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・徳川茂栄、会津藩主・松平容保の三人の兄と共に「高須四兄弟」と呼ばれています。
 安政6年(1859)桑名藩主松平猷が亡くなった際、実子の万之助(後の定教)が幼少であったため、定敬が14歳で養子となり家督を相続します。
 元治元年(1864)定敬は京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保と共に、京都の治安維持にあたりますが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、徳川慶喜と共にいち早く江戸に帰還し謹慎しています。
 定敬は当時、徹底抗戦派と目され桑名藩は新政府から敵視されていましたが、国元の家老たちは、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順を示したため、定敬は国元へ帰ることが出来なくなります。
 その後、会津、仙台、箱館へと移り、箱館戦争終結前の明治2年(1869)に横浜で降伏して謹慎生活を送ります。明治5年(1872)に赦免された後は、兄松平容保のあとを継承し、日光東照宮宮司などを務め、明治41年(1908)に亡くなっています。。
 なお、坂本竜馬暗殺犯とされる京都見廻組与頭佐々木只三郎に暗殺を指令したのは京都所司代であった定敬だという説があるそうです。


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