貴族院勅選議員 渡正元 | 墓守たちが夢のあと

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渡正元の墓

 

 安芸国(現広島県)出身の政治家・渡 正元(わたり まさもと)は、天保10年(1839)広島藩士・田中善平の三男として生まれ、安政6年(1859)には渡氏を称しています。
 広島藩学問所で洋学を学び、その後、江戸や長崎でフランス語を学んだ渡は、明治2年(1869)にロンドンに渡り、翌年にはパリに留学。
 留学中に勃発した「普仏戦争」により、パリはプロイセン王国(ドイツ)により包囲されますが、渡は、その様子を詳細に記録しています。
 パリ開城後、大山巌ら軍事視察員が調査を開始した際、渡は記録ノートを提出。それが『孛仏戦争日誌』(『法普戰争誌畧』)として刊行されます。
 その功により、兵部省は渡を陸軍兵学寮出仕とし、国費留学生となった渡はサン・シール陸軍士官学校予備科で歩兵学を学んでいます。
 明治5年(1872)岩倉使節団がパリに入った際には陸軍少将の山田顕義に随行。明治7年(1874)に帰国すると、陸軍省七等出仕に発令され参謀局第一課分課に配属。参謀局諜報提理などを歴任しています。
 明治10年(1877)には太政官少書記官に転じていますが、西南戦争では、征討別動隊第三旅団会計部長、征討参軍随行征討本営詰として従軍。
 その後、太政官大書記官、参事員議官補などを経て、元老院議官(参事院議官)に就任。明治23年(1890)には貴族院勅選議員に任じられ政治家として活躍し、大正13年(1924)に亡くなっています。
 渡は長年の功績により明治19年(1886)に勲三等旭日中綬章が贈られ、死後、勲二等瑞宝章が追贈されています。


青山霊園1種ロ12-30付近