「阿波丸事件」保科光正 | 墓守たちが夢のあと

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保科家の墓

 

墓誌

 

 大正3年(1914)旧飯野藩 子爵・保科正昭の長男として生まれた保科光正(旧名:正虎)は、外交官や大東亜省秘書官として活躍していましたが、昭和20年4月1日、乗船していた「阿波丸」が米国潜水艦により撃沈され、31歳で亡くなっています。
 終戦間際に起きた「阿波丸事件」は、シンガポールから日本へ向けて、赤十字の救援物資を積載し航行中の阿波丸が、台湾海峡で米国潜水艦クイーンフィッシュによる攻撃で撃沈された事件で、2000人以上が犠牲となります。
 アメリカ政府も非を認め、戦後遺族への補償が行われています。(実際にはアメリカの有償食糧支援が棒引きされて日本が代わりに見舞金を支払い。)
 保科光正の妻、順子(ゆきこ)は、徳川宗家・德川家正公爵の三女。青山霊園の保科家の墓は二人の子、正興氏により建立されています。


青山霊園1種ロ12-30