名奉行遠山金四郎(景元)の父 遠山景晋 | 墓守たちが夢のあと

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遠山景元の墓(左)の隣りに景元が建立した景晋の碑(右)があります。

 名奉行として知られる遠山金四郎(景元)の父・遠山景晋(とおやま かげくに / かげみち)は、宝暦14年(1764)1000石取りの旗本・永井直令の四男として生まれ、明和4年(1767)に500石の旗本・遠山景好の養子となります。通称は金四郎。官職名は左衛門尉。隠居後は楽土と名乗ります。
 遠山家では景晋以降、当主が金四郎を名乗っていますが、これは景晋が永井家の四男だったからと言われています。

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遠山景晋の墓

 天明6年(1786)に家督を相続すると、寛政元年(1789)に榊原忠寛の娘と結婚し、寛政5年(1793)には景元が生まれていますが、皮肉なもので景晋が養子となって3年後に、養父の景好に実子景善が生まれたため、景晋は景善を養子とし、さらに景元を景善の養子にする措置をとっています。
 こうした微妙な立場のために景元は家を飛び出し、放蕩生活の末、体に入れ墨を入れたのではないかとも言われています。
 遠山景晋は、寛政6年(1794)43歳のときに、寛政の改革の一環で行われた昌平坂学問所の学問吟味(有能な人材を試験で登用する制度)で優秀な成績を治め、目付、長崎奉行、勘定奉行など異例の昇進を果たしています。
 また、寛政8年には受験対策書「対策則」を著し、受験生に広く広まったといいます。

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正面には景晋の名、側面に法名が刻まれています。

 主に幕府の外交政策の第一線で活躍した景晋は、文化元年(1804)にロシアのレザーノフが来航した際は応接のため長崎に派遣され、文化2年(1805)には西蝦夷地を視察。ロシア人との交渉記録を松前奉行村垣定行とともに「西蝦夷日記」にまとめています。
 その後、景晋は長崎奉行、勘定奉行などを歴任し、中川忠英、石川忠房と共に文政年間の能吏として称えられています。

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碑文は林述斎によるもの

 天保8年(1837)に亡くなった遠山景晋は、遠山家の菩提寺である本妙寺に葬られています。法名は、静定院殿従五位下前金吾校尉光善楽土大居士。墓碑の碑文は、交流のあった林述斎によるものだそうです。


本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号