名奉行遠山金四郎(景元)の子孫 | 墓守たちが夢のあと

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8代目当主・遠山景彰の墓

 名奉行として知られる遠山金四郎(景元)は、明知遠山氏の分家である旗本遠山家6代目当主でした。
 遠山氏は平安時代の貴族・藤原利仁の子孫加藤景廉が源頼朝の重臣としての功績で遠山荘(岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられたことに始まり、一族は七家に分かれ「遠山七家(遠山七頭)」と称されていました。
 その中の一つ、明知遠山氏は景廉の孫、遠山景重が明知城(現在の岐阜県恵那市明智町)を拠点としたのが始まりだそうです。
 天文12年(1543)に当主となった遠山景行は、織田信長の叔母と結婚し関係を強化していましたが、元亀元年(1570)武田軍の侵攻により亡くなり、その後、明知城も奪われてしまいます。
 なお、遠山景行は明智光秀の叔父で、後見人を務めた明智光安と同一人物であるという説もあります。
 その後、明知城は羽柴秀吉により森長可のものとなり、明知遠山氏は景行の子、遠山利景が徳川家康に仕えています。そして関ケ原の戦いで、ようやく旧領を回復。
 その後、一国一城令のため明知城は取り壊され明知陣屋が置かれますが、明智氏は明治維新まで、ここを領することとなります。
 そして、遠山利景の曾孫からの分家が遠山景元が当主となった遠山家なのです。ただし、景元の父・遠山景晋は旗本永井氏からの養子であるため、景元も明知遠山氏の血筋ではありません。

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9代目当主・遠山景之

 本妙寺の遠山家の墓所では、9代目当主の墓まで確認できました。8代目当主・遠山景彰は、安政2年(1855)2月29日に祖父の景元を亡くし、そのわずか半年後の8月27日に父の景纂が急死しています。
 この時、継嗣の届け出がされていなかったようで、お家断絶を防ぐため、父の同僚たちの協力により手続完了後の9月10日に父が亡くなったと届け出たそうです。
 その後の遠山景彰の動向について詳しいことは分かりませんが、墓石には文久3年12月(1864)に亡くなったと記されています。なお、墓を建立したのは遠山景行となっていますが、おそらく同じ読み方の9代目景之のことだと思います。
 遠山家の墓所には9代目当主・遠山景之の墓もあります。亡くなった年が慶應4年となっていますので、まさに江戸時代の終焉とともに亡くなったことが分かります。

  
本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号