巣鴨の本妙寺に名奉行として知られる遠山金四郎(景元)の墓がありますが、墓を建立した嫡男・遠山景纂(とおやま かげつぐ)も、父と同じ墓に眠っています。景纂も通称・金四郎と名乗っていました。
文化14年(1817)に旗本・遠山景元の子として生まれた景纂は、天保5年(1834)西丸小納戸に務め、当時世子だった徳川家慶に仕えます。
天保7年(1836)に本丸小納戸に移りますが、翌年には西丸小納戸に復帰、天保12年(1841)に再び本丸小納戸に入ると、弘化4年(1847)には徒頭に転任しています。
嘉永4年(1851)に西丸目付に昇進し、翌年に父の隠居により家督を相続した景纂は、嘉永7年(1854)には本丸目付に転任しています。
遠山景纂の法名は敦行院殿誠信景景纂日勇大居士
安政2年(1855)2月29日に亡くなった父の葬儀のため一時休職していた景纂は、その後復帰したものの、8月27日、13代将軍徳川家定の馬揃えに参加した際に病のため急死。年齢は39歳でした。
家臣や同僚の目付衆との相談により、幕府には景纂の死は9月10日と届け出され、子の景彰の家督相続が認められています。
遠山家の記録を記した家臣の日記が残されていますが、幕末に活躍した幕臣の岩瀬忠震や永井尚志らとの交流が記録されています。景纂も生きていたら歴史に名を残していたかもしれません。
建立者として刻まれた遠山景纂の名
遠山景元、景纂親子の墓は景纂自身により建立されていますが、日付は嘉永7年12月となっています。嘉永7年は11月27日に安政に改元していますので製作中に年号が変わってしまったのでしょう。
景元が亡くなったのは安政2年2月29日(1855年4月15日)ですので、亡くなる前には墓石は完成していたのでしょうか?
そして、父の死から半年後に景纂自身も急死していますので、新しい墓を造る間もなく合葬されたのかもしれません。
本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号
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