東急グループ総帥 五島昇 | 墓守たちが夢のあと

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五島家の墓

 
 一代で東急グループを設立した五島慶太の跡を継いだ長男の五島昇は、昭和15年(1940)に東京帝国大学経済学部卒業後、東京芝浦電気(東芝)に入社。
 昭和20年(1945)に東京急行電鉄に入社した後、東急横浜製作所(総合車両製作所)、京浜急行電鉄の取締役を歴任し、昭和29年(1954)に東京急行電鉄社長に就任します。
 父の慶太が強引な企業買収により事業拡大を目指したのに対し、昇は「切るものは切る、伸ばすものは伸ばす」とグループ再編を断行します。
 慶太が亡くなったときに手掛けていた「東洋精糖」の買収工作は、慶太死去のわずか27日後に完全撤退。この他、自動車製造部門からも撤退する一方、本業の鉄道経営では伊豆急行の建設や田園都市線の延伸や、沿線の宅地開発に取り組んでいます。
 余談ですが田園都市線の「たまプラーザ駅」や渋谷109を命名したのは五島昇だと言われています。
 この他、東亜国内航空(日本エアシステムを経て現・日本航空))の設立やホテル事業など事業拡大を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を抱えるまでにグループを発展させる一方、財界活動にも力を入れ、昭和48年(1973)に東京商工会議所副会頭に就任、昭和59年(1984)には日本商工会議所会頭に就任しています。
 また、友人である中曽根康弘を支援し「中曽根康弘を総理にする会」を発足させた昇は、ブレーンとして中曽根内閣を渡辺恒雄らと共に支えますが、売上税導入問題などの激務のためか体調を崩し、昭和62年(1987)に日本商工会議所会頭会長職を退いています。
 そして平成元年(1989) に72歳の生涯を閉じています。
 
世田谷区奥沢7丁目41-3 浄真寺
浄真寺境内墓地