囲碁界の支援者 高田たみ子 | 墓守たちが夢のあと

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高田家累代之墓

 
 「高田商会」の創業者・高田慎蔵の妻たみ子は、囲碁界の有力な支援者としても知られ、自らも初段の腕前だったそうです。
 江戸時代、幕府の庇護のもと繁栄してきた囲碁界も、明治以降その後ろ盾を失い大打撃を受けます。多くの棋士が有力政治家や財界人の支援を受けますが、家元の本因坊秀栄はプライドが高く、様々な援助の申し出を断っていたそうです。
 そんな秀栄が、高田たみ子の支援を受けるのですが、それは、財力におごることなく、ただ純粋に囲碁を愛するたみ子の姿勢に感心したためとも言われています。
 たみ子は、月6回、秀栄から囲碁を習い授業料を払っています。秀栄だけではなく、家元の安井算英や,秀栄と対立していた方円社の社長・中川亀三郎らも個別指導で月々の手当をもらっていたそうです。
 高田商会の躍進で潤沢な資金を得た、たみ子は秀栄と中川亀三郎に屋敷を提供。そして秀栄が定期的に開いていた「囲碁奨励会」も高田邸で開催するようになります。やがて奨励会は、有段者による研究会「四象会」へと発展し1904年まで102回開催、多くの有望棋士を輩出していきます。
 しかし、そんな秀栄とたみ子の関係は突然終止符が打たれます。高田邸へ稽古に来ていた秀栄門下の野沢竹朝がたみ子に暴言を吐き、秀栄に野沢を遠ざけるよう進言しますが、秀栄は「弟子のことに口を出すな」と竹朝をかばい、以後、たみ子の援助を断ったそうです。後に、有力者の仲介で二人は形式上は和解しますが元の関係に戻ることは二度となかったと言われています。
 
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「墓誌」 右側に慎蔵、多美(たみ子)の名、左側には六男・軍三の名が刻まれている。
 
 高田家についてですが、慎蔵とたみ子は、たくさんの子供をもけましたが成人したのは僅かだったようです。「高田家累代之墓」の墓石には長男を初め、数人の戒名が刻まれていますが、戒名から判断するとほとんど子供の時に亡くなっているようです。
 実子以外にも慎蔵は高田商会の前身、ベア商会の経営者・ミカエル ベアと日本人の妻の間に生まれた照子を養女としています。照子は男爵原田一道の子原田豊吉と結婚。その娘は有島武郎の弟で画家の有島生馬に嫁いでいます。
 高田商会を継いだのは娘婿の釜吉で、「天下の糸平」と呼ばれた実業家、田中平八の息子で芝浦製作所や東京電灯で技師として活躍。慎蔵の御眼鏡にかない次女・雪子と結婚し副社長を経て一気にトップへ上り詰めます。しかし経営者としての経験は浅く、慎蔵の死により高田商会は経営難に陥っていくことになるのです。
 高田釜吉の墓も谷中霊園内にありますが、慎蔵の墓とは全く別の場所です。高田慎蔵、たみ子の墓の墓誌には六男で高田商会の常務であった高田軍三の名も刻まれていました。
 
谷中霊園乙7号8側