「高田商会」 高田慎蔵 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

イメージ 1

高田家累代之墓

 
 大正3年(1914)に発覚し、当時の山本内閣を総辞職に追い込んだ疑獄事件「シーメンス事件」は、日本海軍の軍艦建造に絡み、ドイツのシーメンス社や、イギリスのヴィッカース社が軍関係者に賄賂を贈ったという事件ですが、ヴィッカース社の代理店で逮捕者を出した「三井物産」が犯罪に手を染めた背景に、ライバルのアームストロング・ホイットワース社代理店の高田商会が受注するのを阻止したかったためとも言われています。
 三井物産を恐れさせた「高田商会」の創業者、高田慎蔵は旧幕府佐渡奉行支配地役人組頭天野孫三郎の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)で生まれ、父の同僚高田六郎の養子となります。
 慶応元年(1865)には14歳で佐渡奉行に出仕し公事方秘書役などを務め、明治2年(1869)佐渡夷港開港場運上所下調役通弁見習として英語を学んでいます。
 
イメージ 2
墓誌
 
 明治3年(1870)に上京し、築地居留地にあった兵器商社「アーレンス商会」に通弁兼事務官として勤務。当時、外国の商館の独占状態であった政府調達の輸入品について、国策により国内貿易会社が優遇されるようになったため、慎蔵は会社を引き継ぎ、明治14年(1881)に高田商会が設立されます。
 欧米より機械・船舶・武器・軍需品などを輸入していた高田商会は、富国強兵政策の波に乗り、日清・日露戦争で巨額の利益を上げます。さらに明治30年(1897)に八幡製鉄所が建設された際には設備を納入するなど、軍需品以外でも着実に実績を伸ばしていきます。また、鉱山事業を経営するなど「高田商会」は総合商社として発展あいていきます。
 現存はしていませんが、当時の高田商会の勢いの象徴として高田商会本店(麹町)、本郷湯島三組町の高田慎蔵邸、別邸(赤坂表町)と三つの洋館が、鹿鳴館などの設計で知られるジョサイア・コンドルにより建てられています。
 
イメージ 3
高田慎蔵
 
 高田慎蔵は大正元年に会社を娘婿の高田釜吉に譲り顧問に就任。そして大正6年、66歳の時に大磯の別荘に移り美術品を収集するするなどして暮らしたと伝えられています。
 大正10年(1921)に慎蔵は70歳で没しますが、当時、第一次世界大戦後の好景気から一転して株価が大暴落するなど景気が悪化していき。高田商会も打撃を受けることとなります。
 さらに関東大震災による資材の焼失と、復興を見込んで買い付けた木材が、外国産の安い木材に押されて売れ残るなど負債が膨らみ、高田商会は慎蔵の死後四年でに経営破綻、四十五年間の歴史を終えています。 
 タレントの高田万由子は、慎蔵の曾曾孫にあたります。
 
 
谷中霊園乙7号8側 「徳寿院殿心月浄照居士」