条野採菊(本名:伝平)は幕末から明治期にかけて活躍した作家・ジャーナリストです。号は山々亭有人。
伝平は日本橋長谷川町(現・日本橋堀留町2丁目)の地本問屋に生まれ、本郷の呉服屋伊豆倉の番頭となり、顧客であった老中阿部正弘の知遇を得ます。
若いころから五代目川柳こと水谷緑亭に狂歌を習い、条野採菊の名で国文学の知識を活かした人情本作家として頭角を現す一方、先輩の戯作者、仮名垣魯文と共に三題噺の会「粋狂連」を造り、三遊亭圓朝らとも親交を結んでいます。
慶応4年(1868)に旧幕臣の福地桜痴が創刊した「江湖新聞」にも参画しますが、同紙は新政府に批判的であったため翌月廃刊。
明治5年(1872)に政府より「三条の教憲」が発令され、尊皇愛国思想の教化への協力を作家たちが強いられると、ジャーナリストへ転身し、西田伝助、落合幾次郎と共に日報社を設立、東京初の日刊紙「東京日日新聞」を発刊します。設立時の発行所は、浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)にあった伝平の自宅だったそうで、それが現在の「毎日新聞」です。
東京日日新聞は、後に福地桜痴が加わり、政府擁護の論陣を張る御用新聞として、自由民権派の新聞と一線を画していきます。
伝平は明治17年(1884)に、警察にかかわる事件情報を報じる「警察新報」を発刊しますが、部数が伸びなかったため2年後に「やまと新聞」に改題し、大衆紙に生まれ変わらせます。
やまと新聞は花柳界や芸能界の記事、ゴシップ記事を中心とする新聞でしたが、三遊亭圓朝の口述筆記が人気を集めるなどして発行部数を伸ばしていきます。
伝平自身も作家として復帰し、新聞紙上に採菊散人の名で長短50篇以上の小説を掲載しています。そして伝平は「やまと新聞」社長を辞任した翌年の明治35年(1902)に70歳の生涯を閉じています。
なお、伝平が創刊した「やまと新聞」は、その後経営者を変えながら存続。戦時中、新聞統制により廃刊しますが戦後に復刊しています。それが現在の「東京スポーツ」なのです。
歌碑
平成19年(2007)に墓の傍らに歌碑が建立されています。
「いざゆかん老曾の森の雪の道むかしの人の跡を踏みつつ」
谷中霊園乙7号甲2側