![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/c4/25/j/o1224091814490009708.jpg?caw=800)
田安家墓所
谷中霊園の一画には江戸時代の御三卿の墓所がそれぞれあります。御三卿とは第8代将軍徳川吉宗により創設された将軍家(徳川宗家)の別家で、徳川御三家と同様、将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担ってきました。
三家の当主は従三位で公卿の位であったことから「御三卿」と呼ばれ、それぞれ10万石が支給されましたが、領地は全国各地に分散し、藩として直接領地を支配することはありませんでした。
あくまで将軍家の家族という立場で徳川姓を名乗りましたが、それぞれ江戸城内に与えられた屋敷の近くの城門にちなみ、通称として田安・一橋・清水の名で呼ばれています。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/9e/4c/j/o1251093914490009715.jpg?caw=800)
田安家の初代当主・徳川宗武は、第8代将軍・吉宗の次男で、幼少より聡明であり荷田在満や賀茂真淵に学び、国学者、万葉調の歌人としても名を残しています。
兄・家重は一説に脳性麻痺であったと言われ言語障害があり将軍の継嗣として不安視されていたため宗武を将軍後継者に推す動きもありました。しかし吉宗は家康が第3代将軍を家光としたように長幼の序を重視し、家重を後継者とします。
吉宗はこの頃、尾張藩主徳川宗春と対立するなど御三家との関係はあまり良くなく、そうした背景から新たな将軍継嗣対策が必要となったと考えられます。田安徳川家が創設されたのは享保16年(1731)の事です。
しかし将軍後継者問題により家重は将軍就任後、宗武を推した老中を罷免。宗武を登城禁止処分としています。周りの働きかけもあり3年後には登城禁止は解除されますが、家重は生涯、宗武の謁見を許さなかったそうです。
徳川宗武は、明和8年(1771)に死去。享年57。田安徳川家は五男の治察が継いでいます。戒名は「悠然院殿寛山圓休大居士」
徳川宗武の墓の隣りに、正室・宝蓮院の墓があります。関白を務めた近衛家久の次女、近衛通子。宗武の死後に落飾して宝蓮院と号しています。
宗武の跡を継いだ実子の徳川治察が、その3年後の安永3年(1774)に亡くなると、田安家は当主不在の状態になります。
当主がいない田安家では、宝蓮院が代行を務め、天明7年(1787)に一橋徳川家から徳川斉匡を養子に迎えようやく当主が復活しますが、宝蓮院はその前年に亡くなっています。
東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地