田安家 3代当主・徳川斉匡 | 墓守たちが夢のあと

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 安永3年(1774)、2代当主・徳川治察が亡くなり田安徳川家は14年間、明屋形(無当主)の状態となります。
 その田安家の第3代当主となったのが、一橋徳川家2代当主徳川治済の五男、徳川斉匡(なりまさ)です。斉匡は江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる人物です。
 田安家相続を巡っては、斉匡が将軍の庶子ではなく御三卿の庶子であったことから御三家の尾張、水戸家が強く反発しますが、先代の弟である老中松平定信が、初代宗武の正室・宝蓮院の遺志であるなどとして説得したそうです。
 兄の将軍家斉は多くの子宝に恵まれた事で知られていますが、斉匡も多くの子女を設け養子縁組が組まれています。四男・斉位と五男・慶壽は一橋家に入り当主になっていますし、幕末の四賢侯の一人、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)も斉匡の八男です。そして、十男の慶臧は尾張藩第13代藩主となっています。
 しかし肝心の田安家では次男・匡時が世子となりますが病弱を理由に幕府より廃嫡にされ、養子として迎えていた兄家斉の十二男・斉荘が天保7年(1836)斉匡の隠居にともない4代当主となります。
 そして斉荘が天保10年(1839)に尾張徳川家の当主に転出したことにより、斉匡の九男・慶頼が第5代当主に就任。斉匡はその後見に当たっています。
 徳川斉匡は嘉永元年(1848)に死去。享年70歳。戒名は「惇宗院戒徳巖明」
 
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地