水野忠邦の側近 渋川敬直 | 墓守たちが夢のあと

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墓石に刻まれた戒名のうち左側の「霊照院月峰宗円居士」が渋川敬直の戒名

 
 東海寺大山墓地の天文方渋川家の墓所で、4代目渋川敬也、9代目渋川景佑の墓に俗名は刻まれていないものの、もう一人分の戒名が刻まれています。戒名を手掛かりに調べたところ、この人物は景佑の嫡男、渋川敬直(しぶかわ ひろなお)である事が分かりました。
 渋川敬直は、文化12年(1815)に江戸で生まれ、天保2年(1831)、17歳の時に天文方見習となり、父・景佑の天保暦改暦作業では、その片腕として活躍しています。
 一方で、天保13年(1842)に書物奉行を兼務し幕府より禄を得て活躍しています。老中水野忠邦は敬直を重用し「天保の改革」で意見を求めるなどし、鳥居耀蔵・後藤光亨と並び「水野の三羽烏」とも呼ばれました。ただ、鳥居耀蔵を中心に行われた蘭学者への弾圧「蛮社の獄」にも関与していたとも言われています。
 「天保の改革」では質素倹約・風俗粛正を断行し、農村復興のための人返しの令、経済面では株仲間の解散による物価引き下げなどの諸改革を行いますが、江戸・大坂周辺を天領とする上知令に対し、大名や旗本が激しく反対し水野忠邦は失脚。渋川敬直も改革失敗の罪を問われ、弘化2年(1845)、豊後に配流されて臼杵藩へ御預けとなります。
 このため、敬直は渋川家を継ぐことなく廃嫡となり、弟の佑賢が天文方を継承、敬直は配流から6年後、失意のうちに37歳で病死しています。
 東海寺大山墓地の墓石に俗名が刻まれていないのは敬直が配流されていたためだと思われます。
 
 
東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)