「天保暦」を作成 渋川景佑 | 墓守たちが夢のあと

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渋川景佑の墓

 
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墓石の背面に刻まれた「景佑」の名
 
 東海寺大山墓地にある、天文方4代目・渋川敬也の墓の裏面を見ると、俗名で敬也の他に9代目・渋川景佑(しぶかわ かげすけ)の名も刻まれていました。
 8代目・渋川正陽は、相次いで子供達が幼い時に早世したため養子を取ることとします。しかし、渋川家は天文方筆頭という家柄でありながら当主の相次ぐ急死と養子縁組を繰り返してきたため、天文方としての実質的権限は失われ正陽自身も天文学とは関係ない家から養子に入っていました。
 そこで正陽が迎えたのが、同じ天文方の高橋至時の次男、景佑なのです。
 渋川景佑は天明7年(1787)に大阪で生まれ、父の天文学者・高橋至時が改暦作業のため幕府より天文方として召し抱えられたことから兄の景保と共に江戸へ移り住みます。なお、父の高橋至時が天文方となり間もなく門弟となったのが当時50歳、至時より19歳年上の伊能忠敬でした。
 高橋至時は、寛政9年(1797)に新暦「寛政暦」を完成。寛政10年(1798)より施行されます。また、後に「大日本沿海輿地全図」作成につながる伊能忠敬の測量事業を支援し助言を行なうなど精力的に活動を続けますが、体調を崩しがちとなり文化元年(1804)に41歳で死去します。
 至時の跡を継ぎ天文方に任命された長男の景保は、伊能忠敬が日本全国の測量事業完了後、地図作成作業の途中で亡くなったため、事業を引き継ぎ、文政4年(1821)に「大日本沿海輿地全図」を完成させます。
 一方、弟の景佑は、父のもとで天文学を学び、伊能忠敬に従って東海地方・紀伊半島・中国地方の測量に参加しています。そして、文化5年(1808)に天文方であった渋川正陽の養子に迎えられ、翌年養父の隠居により天文方に任じられています。
 渋川景佑は、兄の高橋景保と共に、父が手掛けていた、フランスの天文学者ジェローム・ラランドによる「ラランデ暦書」の翻訳事業にあたりますが、文政11年(1828)に兄の景保が「シーボルト事件」に関与して投獄されてしまいます。樺太の資料を求めていた景保が、オランダ人医師シーボルトからクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを入手し、その代わりに、国外持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに贈ったというもので、景保は翌年に獄死し、死後あらためて遺体が斬首されたそうです。
 兄の縁座を免れた景佑は、その後も「ラランデ暦書」の翻訳を続け、天保7年(1836)に『新巧暦書』や『新修五星法』を完成、さらに、これを基に改暦作業に着手し、明治に入り太陽暦が導入されるまでの日本最後の太陰太陽暦「天保暦」を完成させています。 
 景佑は取り潰された高橋家への想いなのか、養子に入った名門渋川家の復権をかなり意識していたのか、天文学の研究に没頭し、多くの書物を書き著します。また、渋川家の事績をまとめた「渋川氏先祖書」も作成します。
 景佑の想いは嫡男の渋川敬直にも引き継がれ、敬直は天文学・暦学のみならず、オランダ語の英文法の書物「英文鑑」を著すなど活躍し、その才能を認めた老中水野忠邦の側近として「天保の改革」を推進していきます。ところが、改革は様々な抵抗を受けて頓挫、敬直は責任を問われて豊後に配流されたため景佑はやむなく敬直を廃嫡としました。
 更に黒船来航を機に幕府は開国に踏み切り多くの西欧の知識が国内に流入してきます。それまでの天文方による蘭学独占状態が激変する中、 安政3年(1856)に景佑は病死しています。
 
東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)