伊能忠敬の墓
墓石に刻まれた碑文
現地説明板
伊能忠敬
東上野にある浄土宗の源空寺は、天正18年(1590)に湯島に創建され、明暦3年(1657)の「明暦の大火」で類焼して現在地に移転してきました。
源空寺の幕府天文方・高橋至時の墓の隣りに、至時の弟子で、日本初の実測による正確な地図「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬の墓があります。
延享2年(1745)に上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた忠敬は、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、商人として活動します。
酒、醤油の醸造、貸金業などを営み、伊能家を再興した忠敬は、寛政6年(1794)、50歳の時に家督を長男に譲り隠居します。一般的には、この後は気楽な隠居暮らしとなる所ですが、忠敬の偉業はこの後に始まるのです。
翌年、江戸へ出た忠敬は、高橋至時に師事し、測量・天文観測などを学びます。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩は暦学の意味)というあだ名で呼ばれていたと言われます。その際、天体観測により地球の大きさを計算しますが、師匠の高橋至時に、基準となる地点の距離間が短過ぎ不正確であると一笑に付されます。この事が、後年の測量事業のきっかけの一つとなったと言われています。
寛政12年(1800)、56歳の時に、幕府の支援のもと地図作成のための測量事業を開始。忠敬の技術が極めて高度であったことから幕府は国家的事業として支援を増強します。忠敬は、そのデータを基に再び地球の大きさを計算していますが、その値は、現在計測されている数値と僅か0.1%程度の誤差という大変正確な値だったそうです。
忠敬の墓は、遺言により師匠・高橋至時の眠る源空寺に建立されます。さらに地図を完成させた高橋景保も、その隣りに眠っています。
源空寺:台東区東上野6-19-2