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渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士
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品川の東海寺大山墓地にある渋川家の墓所で一番奥にあるのが天文方5代目である渋川則休(しぶかわ のりよし)の墓です。
延享3年(1746)、徳川吉宗は貞享暦の改暦のため則休を改暦御用に任じますが、則休は暦学未熟を理由に固辞。
幕府は則休と共に天文学者の西川正休を天文方に任じて則休の指導に当たらせています。また、天文方の管轄を寺社奉行から若年寄に改めるなど則休を支援する姿勢を整えた上で則休と西川に正式に改暦命令を出します。
寛延3年(1750)2月27日に上洛した二人は京都で改暦のための観測事業を行うとともに、陰陽頭土御門泰邦と協議を始めます。しかし、桜町上皇崩御により作業が一時中断され、江戸に戻っていた寛延3年(1750)8月に病のため34歳で急逝しています。
東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)