天文方5代目 渋川則休 | 墓守たちが夢のあと

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渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士

 
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側面に刻まれた「天文博士 渋川六蔵墓」の文字。六蔵は則休の通称
 
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墓石の側面には亡くなった日は寛延3年8月21日と刻まれています。
 
 
 品川の東海寺大山墓地にある渋川家の墓所で一番奥にあるのが天文方5代目である渋川則休(しぶかわ のりよし)の墓です。
 則休は、第3代天文方渋川敬尹の嫡男として享保2年(1717)に江戸で生まれます。囲碁の家元安井家の三世安井知哲の孫にあたります。
 10歳の時に父が急死し、門人の渋川敬也が天文方を継承して則休はその養子となりますが、養父の敬也も一年後に亡くなったため、わずか11歳で天文方に就任します。
 延享3年(1746)、徳川吉宗は貞享暦の改暦のため則休を改暦御用に任じますが、則休は暦学未熟を理由に固辞。
 幕府は則休と共に天文学者の西川正休を天文方に任じて則休の指導に当たらせています。また、天文方の管轄を寺社奉行から若年寄に改めるなど則休を支援する姿勢を整えた上で則休と西川に正式に改暦命令を出します。
 寛延3年(1750)2月27日に上洛した二人は京都で改暦のための観測事業を行うとともに、陰陽頭土御門泰邦と協議を始めます。しかし、桜町上皇崩御により作業が一時中断され、江戸に戻っていた寛延3年(1750)8月に病のため34歳で急逝しています。
 
東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)