徳川家重の側用人 大岡忠光 | 墓守たちが夢のあと

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龍門寺本堂

 
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大岡忠光の墓
 
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林大学撰分の碑
 
 埼玉県さいたま市岩槻区の日光御成道に面する龍門寺には、岩槻藩初代藩主・大岡忠光の墓があります。
 300石の旗本・大岡忠利の長男として生まれた忠光は、享保9年(1724)に第8代将軍徳川吉宗の世子・家重の小姓となり、以降家重に側近として仕えます。家重は脳性麻痺の障害により言語が不明瞭であったため、その言葉を唯一理解できた忠光は、延享2年(1745)、家重の将軍就任後、異例の大出世を遂げ、宝暦元年(1751)に上総勝浦藩1万石の大名となり、宝暦6年(1756)には吉宗時代に廃止されていた側用人に就任、所領も加増され武蔵国岩槻藩2万石の藩主となります。
 忠光は、将軍の言葉を唯一伝える人物でありながら、決して奢ることなく、幕政に口を挟むようなこともなかったそうです。宝暦10年(1760)に忠光が亡くなると、最大の理解者を失った家重は長男・家治に将軍職を譲り、翌年、忠光の後を追うように亡くなっています。
 
埼玉県さいたま市岩槻区日の出町9-67