沢庵宗彭 品川東海寺 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

イメージ 1

 

 沢庵宗彭は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した臨済宗の僧です。但馬出石(兵庫県豊岡市)出身で、父親は但馬国守護・山名祐豊の重臣でしたが山名家は羽柴秀吉の侵攻により滅亡し、沢庵は10歳で出家しています。大徳寺の春屋宗園の弟子・薫甫宗忠に師事し、その後、薫甫と共に京都上り大徳寺三玄院の春屋宗園に師事します

 

 慶長4年(1599)に、石田三成が居城佐和山城の城内に瑞嶽寺を建立した際、薫甫が住職となった事から沢庵も佐和山城に同行し、翌年まで滞在しますが、「関ヶ原の戦い」の結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出。その後、春屋宗園と共に、三成の遺体を引き取り、三玄院に墓所を建立しました。
 沢庵は慶長14年(1609)に37歳で大徳寺の第154世住持に出世しますが3日で退院し,堺,奈良,京都を遍歴した後、故郷の但馬宗鏡寺の投淵軒にて隠棲します。
 しかし、時代は二代将軍徳川秀忠の時代で、江戸幕府の支配力強化のため、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなり、特に、大徳寺のような有力寺院については、「禁中並公家諸法度」により朝廷との関わりに規制もかけていました。つまり、従来は、天皇の詔で決まっていた住持職を幕府が決めるとし、天皇から賜る紫衣の着用も幕府が認めた者のみに限ると定められたのです。そうした中、幕府は寛永4年(1627)に後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った、大徳寺に出世した正隠宗知への紫衣着用の勅許について、法度違反とみなし無効とします。これに反発した沢庵は京に上り、寛永6年に玉室宗珀らと共に幕府に対し抗議書を提出します。そのため、沢庵は幕府によって罪に問われ,出羽国上山(山形県)に流される事となりました。この出来事は「紫衣事件」と呼ばれています。後水尾天皇は同年、幕府に相談することなく突然退位しますが、この事件が大きく影響したと言われています。ちなみに後水尾天皇の夫人(中宮)和子は徳川秀忠の娘で、跡を継ぎ109代天皇となった明正天皇は女性で、秀忠の孫娘となります。女性天皇は生涯結婚しないのが慣例で、これにより天皇家へ入った徳川家の血筋は絶たれることとなります。また、後水尾天皇は上皇として院政を敷き朝廷での実権を握ったままだったそうです。
 寛永9年(1632)、沢庵60歳の年に、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海堀直寄柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許されます。沢庵は天海らの強い勧めにより将軍家光に謁見。家光は深く沢庵に帰依するようになったと言われます。また後水尾上皇に召されるなど江戸と京都を行き来し精力的に活動した結果、紫衣事件の発端となった大徳の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺派らの紫衣も戻されています
 将軍家光は寛永16年(1639年)に沢庵のために品川に東海寺を創建します。沢庵は初代住職を務め、正保2年(1646)、73歳の時に江戸で亡くなります。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて亡くなったと言われています。「墓碑は建ててはならぬ」と言残したと言われていますが、故郷の円覚山宗鏡寺 と品川の東海寺に墓が残されています
 沢庵和尚と言えば、ダイコンの漬物である「沢庵漬け」の考案者であるとも言われています。あるいは、関西で親しまれていた「たくわえ漬」を徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際に出され気に入り、「沢庵漬」と命名したとも言われていますが、いずれも風聞の域を出ないもので、単にたくわえ漬」と沢庵の言葉が似ていたために、そんな話が出来ただけかもしれません
 
東海寺 : 品川区北品川三丁目11番9号
       墓所は東海寺から少し離れた大山墓地:北品川4丁目-11-8
撮影日 : 2010.12.30
【関連記事】 沢庵宗彭 宗鏡寺