墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

伊澤蘭軒の墓(中央)

 

説明板

 

 伊澤蘭軒は、江戸時代後期の高名な医師、儒学者、考証家である。名は信恬(のぶさだ)、通称は辞安、号を蘭軒と称した。蘭軒の生涯や人間関係については、文豪・森鷗外が長編史伝小説『伊沢蘭軒』で詳細に描き、広く知られている。

 蘭軒は安永6年(1777)、備後福山藩(現在の広島県福山地方)の藩医の子として、江戸の本郷に生まれ、自身もその跡を継いで藩医・儒官として活躍する。
 医学のみならず、儒学や本草学(中国伝統の薬物学)にも深く通じ、当時、最先端の「考証学」(客観的な証拠に基づいて古典を実証的に研究する学問)を重視。同門の著名な考証家である狩谷棭斎(かりやえきさい)らとともに多くの書物を集め、文献の正しさを検証する書誌学を発展させた。
 蘭軒は福山藩の儒者菅茶山、頼山陽、狂歌師としても名高い幕臣大田南畝(蜀山人)、書家・儒学者の亀田鵬斎らと詩文を交わすなど、当時の著名な文人と交流し、学問を論じ合う中心的な存在であった。また、優れた指導者でもあり、幕末から明治にかけて活躍する多くの優秀な子弟を育成した。なかでも、渋江抽斎、森立之、清川玄道、山田椿庭、岡西玄亭は、「蘭門五哲」と称されている。息子である伊澤榛軒(しんけん)や伊澤柏軒(はくけん)も優れた医師・学者であり、伊澤家は代々学問の家系として名を残している。
 蘭軒は三十代後半から重い下肢の病を患い、晩年は両脚の自由を完全に失い歩行不能となった。しかし、その高い医学的知識と優れた学識、そして誠実な人柄から、福山藩主(阿部家)からの信頼は極めて篤く、特例として「輦(れん / 乗り物)」や駕籠(かご)に乗ったまま城内へ登城することが許されていた。さらには数人の侍に座布団ごと手舁(てが)きにされて君前に進むこと(朝不坐の特典)さえ認められていた。
 身体の自由を失うという大きな苦難に対しても、蘭軒は諦念と忍耐をもって静かに受け入れ、医師としての公務と、仲間たちとの詩歌や学問の交流を最期まで楽しみ続けた。文政十二年(1829)に五十三歳で没し、西麻布の長谷寺に葬られる。なお、蘭軒の墓は港区指定文化財となっている

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34

 

阿久悠

 

 昭和の歌謡界を代表する作詞家であり、小説家、放送作家としても多大な足跡を残した阿久悠(あく ゆう、本名:深田公之)は、時代の空気を鋭敏に捉え、人々の心に寄り添う数々の名曲を生み出した人物である。その生涯は、日本の戦後大衆文化の変遷とその発展に深く重なっている。

 阿久悠は昭和12年(1937)、兵庫県淡路島に生まれる。明治大学文学部を卒業後、広告代理店で『月光仮面』や『快傑ハリマオ』などラジオやテレビの番組製作も手掛けた「宣弘社」の宣伝部(現:電通アドギア)に就職。主にテレビCMの仕事に携わり、やがてテレビ番組の構成や台本を執筆するようになって、フリーの放送作家として独立した。この広告代理店での経験や、テレビという新しいメディアの最前線にいたことが、後に彼の「大衆が今何を求めているか」を見抜く卓越したマーケティング感覚を養うことになった。
 1960年代後半から本格的に作詞活動を始め、その才能が一気に開花する。阿久悠の作詞スタイルの最大の特徴は、従来の演歌的な「情念」や「未練」を排し、自立した人間像や、時代のドキュメンタリーを切り取るような斬新な世界観を提示した点にある。
 彼は自らに「作詞家憲法15条」という厳しいルールを課し、美辞麗句に頼らない、具体的で力強い言葉でメッセージを紡ぎ出した。その結果、生み出された名曲は枚挙にいとまがない。
 また、オーディション番組『スター誕生!』の審査員長としても活躍し、番組を通じて山口百恵やピンク・レディーなど、時代を彩るスターを数多く見出し、プロデュースした。1970年代の日本の音楽賞は「阿久悠のための賞」と化すほど、その影響力は絶大なものであった。
 1980年代に入り、バンドブームの到来など音楽シーンが変化すると、活動の軸足を小説やエッセイの執筆へと移していった。自身の淡路島での少年時代(戦中・戦後)を瑞々しく描いた小説『瀬戸内少年野球団』がベストセラーとなり、映画化もされ、作家としても高い評価を確立している。また、生涯にわたり甲子園の高校野球を愛し、大会期間中に球児たちへ向けた詩「甲子園の詩」を新聞に連載し続けたことでも知られている。
 

阿久悠の墓

 

 阿久悠は、平成19年(2007)7月1日、尿管がんのため70歳で逝去している。没後、その多大なる功績を称え、政府から旭日小綬章が授与され、さらに個人としては異例の日本レコード大賞「特別功労賞」が贈られた。
 生涯で手がけた作詞数は5,000曲を超え、シングル総売上枚数は約6,800万枚に達した。阿久悠が遺した言葉の数々は、単なる流行歌の枠を超え、昭和という激動の時代を生きた日本人の心の原風景として、今なお歌い継がれている。

【日本レコード大賞受賞の主な作品】
 

日本レコード大賞
 1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
 1976年「北の宿から」都はるみ
 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
 1978年「UFO」ピンク・レディー
 1980年「雨の慕情」八代亜紀

日本レコード大賞・作詩賞
 1973年「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス。
     「じんじんさせて」山本リンダ
 1975年「乳母車」菅原洋一
 1985年「夏ざかりほの字組」Toshi & Naoko(田原俊彦・研ナオコ)
 1986年「熱き心に」小林旭
 1990年「花(ブーケ)束」八代亜紀
 1994年「花のように鳥のように」桂銀淑
 1996年「螢の提灯」坂本冬美

日本作詩大賞
 1974年「さらば友よ」森進一
 1976年「北の宿から」都はるみ
 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
 1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行
 1982年「契り」五木ひろし
 1984年「北の螢」森進一
 1988年「港の五番町」五木ひろし
 2002年「傘ん中」五木ひろし

 

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34

 

榎本健一

 

 「エノケン」の愛称で広く親しまれ、昭和初期から中期にかけて圧倒的な人気を誇った喜劇王・榎本健一。彼は、日本のモダン都市文化の開花とともに現れ、舞台、映画、ラジオを通じて戦前・戦後の日本人に笑いと活力を与え続けた不世出のエンターテイナーである。

 榎本は明治37年(1904)、東京市赤坂区青山(現在の港区青山)に生まれる。幼少期から風変わりで目立ちたがり屋だった彼は、大正時代に一世を風靡した「浅草オペラ」に魅了され、大正8年(1919)に「根岸歌劇団」のスター歌手である柳田貞一に弟子入り。端役ながらもコーラスボーイとして参加し、舞台の基礎や音楽的センスを磨いた。
 大正12年(1923)の関東大震災によって浅草オペラが壊滅的な打撃を受けると、一時、関西へ移り東亜キネマに入って榎本健の芸名で映画に端役として出演した。その後、復興した浅草に戻り、劇団「カジノ・フォーリー」などに参加。ジャズなどの洋楽を取り入れた、軽快でモダンなナンセンス喜劇が浅草の若者を中心に爆発的な支持を集め、ここに「エノケン」の黄金時代が幕を開けた。
 1930年代に入ると、劇団「ピエル・ブリヤント」を結成、同劇団は後に「エノケン一座」と名和改め、劇場は連日超満員となった。その人気に目をつけた映画界からも声がかかり、P.C.L.(東宝の前身)で撮った『エノケンの青春酔虎伝』(1934)が大ヒット。小柄な体をフルに使ったスピーディーでアクロバティックな動き、ユーモラスな表情、そして浅草オペラ仕込みの抜群の歌唱力とリズム感は、映画という新しいメディアを通じて全国へ浸透していった。
 その後も『エノケンの近藤勇』や『エノケンの頑張り戦術』など、自身の名前を冠したヒット作を連発し、関西の雄である「ロッパ」こと古川緑波と並び、日本の喜劇界の頂点に君臨した。
 日中戦争から太平洋戦争へと進むにつれ、戦時下の検閲や演劇への規制が強まり、持ち味である自由奔放なナンセンス笑いは制限を余儀なくされたが、終戦を迎えるとすぐに活動を再開。焼け跡に残された人々に、いち早く笑いと娯楽を届け、黒澤明監督の映画『虎の尾を踏む男達』への出演や、美空ひばりら若き才能との共演など、変わらぬ存在感を示し続けていく。
 ところが、1950年代以降、長年の過酷な舞台パフォーマンスがたたり、右足の脱疽(だっそ:組織が壊死する病気)を発症。昭和37年(1962)には、ついに右大腿部からの切断を余儀なくされる。足を失ったことは喜劇役者として致命的かと思われたが、家族の支えや、来日したアメリカの喜劇王ハロルド・ロイドの激励により気力を取り戻し、不屈の精神で復帰。精巧な義足をつけて再び舞台に立ち、観客を感動させた。
 昭和29年(1954)には緑波、柳家金語楼らと日本喜劇人協会を設立し、会長に就任。35年には、喜劇人として初の紫綬褒章を受章している。
 晩年は怪我の悪化やテレビの人気などにより、舞台活動は減少し、テレビでの活躍が増えていく。
 ただ、不運にも多額の借金を背負い込み、喜劇人でありながら"悲劇の人"と言われていたという。税金が払えず、銀行からやっとの思いで借りて収めたという話を、当時の池田勇人首相が聞き、首相自ら発起人となって「榎本健一君を激励する会」を開催。政敵である社会党や民主社会党からも議員が出席し、榎本を支援したというエピソードも残されている。


榎本健一の墓

 

 長年の飲酒癖で肝臓を患うなど体調を崩していた榎本は、昭和45年(1970)1月7日、肝硬変により65歳で死去。死後、その多大なる功績に対して勲四等旭日小綬章が授与された。
 エノケンが築いた「音楽、ダンス、笑い」を融合させたモダンな喜劇スタイルは、のちの劇団や多くのコメディアンたちに受け継がれ、現在の日本のお笑い文化の確固たる礎となっている。
 

 

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34