墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

金田家の墓

 

側面

 

 金田平一郎(かなだ へいいちろう)は、日本の法学者であり、特に日本法制史の分野で不朽の業績を残した人物である。
 明治33年(1900)、茨城県に生まれ、大正15年に東京帝国大学法学部法律学科(独逸法選修)を卒業。同大学院を経て、昭和5年(1930)に九州帝国大学(現・九州大学)に助教授として赴任し、法文学部で日本法制史の講座を担当した。以降、生涯の多くを九州の地で教育と研究に捧げ、江戸幕府における債権法制度など民事責任の体系的研究を行うなど、日本法制史研究の第一人者として活躍していった。昭和15年(1940)に教授となり、昭和24年(1949)に法学博士となる。
 没後、九州大学に収められた1000点以上に及ぶ旧蔵書や古文書が「金田文庫」として文庫化され、これまで充分に知られていなかった博士の研究活動、および拠点となった九州帝国大学や福岡の当時の様子が明らかになりつつある。

多磨霊園 18-1-43-23
 

三好十郎の墓

 

 三好十郎は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した、詩人・小説家で、一言で言えば、「人間とは何か」という問いを、自分自身の魂を削りながら追い求め続けた表現者であった。
 明治35年(1902)、佐賀県に生まれた三好は、早稲田大学在学中から詩を書き始めている。当初はプロレタリア文学運動(労働者の権利や社会変革を訴える運動)に身を投じ、昭和3年(1928)に戯曲『首を切るのは誰だ』で劇作家としてデビュー。社会の不条理を鋭く突く作品を次々と発表し、左翼演劇界の旗手として注目を浴びた。 
 1930年代に入ると、国家による弾圧や運動内部の矛盾に直面し、多くの知識人が共産主義思想を捨てる「転向」を余儀なくされる。三好もまた、組織を離脱するが、多くの作家が転向後に沈黙したり体制に迎合していく中、三好は「なぜ自分は信じていたものを捨てたのか」という自己批判と向き合っていたという。この時期から『斬られの仙太』など、作品は単なる政治スローガンではない「個の救済」や「人間の本質」へとテーマが移っていった。
 戦後、三好十郎の筆はさらに鋭さを増し、日本演劇史に残る傑作を連発していった。『廃墟』『その人を知らず』など、戦争責任や、戦後の日本人の倫理観を厳しく問うた作品のほか、昭和26年(1951)には、画家ゴッホの生涯を描いた傑作『炎の人』を発表。情熱と孤独の中で芸術に命を捧げる姿は、三好自身の投影とも言われている。このほか、「彦六大いに笑ふ」「斬られの仙太」など映画化された作品も多く誕生した。
 三好の作品の特徴は、嘘や妥協を許さず人間心理の深淵をえぐり出す徹底したリアリズム。他人を批判する以上に、自分自身の醜さや弱さをさらけ出すスタイル。そして、「思想を言葉で定着させる」ため、圧倒的な台詞量による重厚で詩的なモノローグである。とにかくセリフが長く、熱量が高いことで知られ、「そんなに喋らなくても…」と思うほど、登場人物たちが魂の叫びをぶつけ合っている。 
 昭和33年(1958)、56歳でその激しい生涯を閉じているが、彼の作品は今もなお、文学座などの劇団によって繰り返し上演され、現代を生きる私たちの心を揺さぶり続けている。

 

多磨霊園 18-1-36-22

 

佐藤家の墓

 

佐藤繫信建立

 

 佐藤繁信は、昭和初期に帝国競馬協会で活躍し、「近代競馬の創設者」と言われた人物である。
 福島県出身。大正14年、東京帝国大学法学部卒。帝国競馬協会に入り、主事補佐であった昭和七年に、調査研究のため渡欧し二年間欧州に留学。ニューマーケットルール(英国競馬施行規程)を学んで日本に持ち帰り、これが現在の「日本中央競馬会競馬施行規程」の基礎となった。帰国後は、調査結果を「ヨーロッパにおける競馬事業序説」(全二巻)にまとめ、各地で講演するなどしている。
 昭和11年、11の競馬倶楽部と帝国競馬協会を統合する形で「日本競馬会」が設立されると、企画課長、東京競馬場場長を歴任し、昭和18年には理事へ就任した。昭和29年、日本中央競馬会設立にともない、理事(開催理事室長)となった。
 昭和43年(1968)12.25、東京慶応病院で脳出血のため死去。享年69歳。12月27日に東京競馬場で葬儀が行われている。
 多磨霊園にある佐藤家の墓は繁信が建立したものである。

多磨霊園 18-1-31