辰野保の墓
大日本体育協会理事などを歴任し、スポーツ振興に尽力した辰野保は、明治24年(1891)に東京市赤坂で、東京駅の設計者として知られる建築家辰野金吾の次男として生まれる。兄はフランス文学者の辰野隆である。
旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中は陸上部で活躍し、砲丸投げとハンマー投げで当時の日本記録を樹立している。
大正6年(1917)に東大を卒業、岩田宙造の法律事務所で実務研修を行い、翌年に独立開業する。
また、スポーツ界とも縁が切れることなく、大正9年(1920)アントワープオリンピック(ベルギー)では役員(監督)として選手団に同行。この時、世界の競技力の高さを実感し、帰国後に欧米へ在外連絡員を置き、海外事情を研究する必要性を訴えた。
大日本体育協会理事、大日本相撲協会理事、全日本アマチュア拳闘連盟(日本ボクシング連盟)会長を歴任し、昭和15年(1940)には、東京オリンピック招致委員会委員長として東京への大会誘致に尽力した。
このほか、昭和8年(1933)、東京市会議員選挙で渋谷区から政友会の候補として出馬し当選、一期務めている。
昭和13年(1938)東京目黒の自宅で死去。墓所は父・金吾、兄・隆と同じ、西新宿の常圓寺にある。







