墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

 

原田豊吉

 

原田豊吉夫妻の墓

 

顕彰碑

 

 明治期の地質学者・原田豊吉は、万延元年11月21日(1861年1月1日)に兵学者原田一道の長男として江戸に生まれる。
 東京外国語学校でフランス語を学び、欧州留学経験のある父や、その知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで、明治7年(1874年)14歳の時にドイツへ留学。自由都市ハンブルグ近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年学んだ後、フライベルク鉱山学校を卒業し、バーデン大公国ハイデルベルク大学で地質学、ミュンヘン大学で古生物学を学ぶ。明治15年には初夏にベルリン大学から博士号を取得し、秋からウィーン地質調査所に勤務している。
 明治16年(1883)に帰国し、農商務省御用掛権少書記官として地質調査所に入所する。若くして海外へ渡った原田は、帰国時に日本語をほとんど忘れていて周囲に助けられながら務めたという。
 明治17年(1884)より東京帝国大学理科大学の地質学教授を兼任し、初の日本人地質学教授となる。
 当時、日本地質学の中心人物であったドイツ人で地質学教室初代教授のハインリヒ・エドムント・ナウマンが、任期満了にともない明治18年に帰国すると、原田は地質学界の中心人物の一人として活躍していく。余談だが、古代日本に存在したというナウマンゾウは、明治初期に横須賀で骨が発見されナウマンが、研究し発表したことが名前の由来である。、
 帰国後間もなく、ナウマンは日本での研究成果として、論文「日本群島の構造と起源について」を発表。東北日本と西南日本の境目となる中央地溝帯を発見し「フォッサマグナ」と名付けたが、その成り立ちを巡り原田と大論争を繰り広げている。
 明治22年(1889)、肺結核を患い大学を辞職し、翌年には地質局も休職した原田は、明治24年(1891)に、ドイツへ渡り、細菌学の世界的権威ロベルト・コッホの治療を受けるが、帰国後の明治27年(1894)に33歳で亡くなっている。
 妻の照子はドイツ人の武器商人ミヒャエル・ベアと日本人の妻の間に生まれたハーフだが、ベアが帰国する際に財閥高田商会の高田慎蔵が引き取り養女としている。ベア商会に勤めていた高田慎蔵は政府の方針により外国商館との取引が中止されたため、ベアから経営を引き継ぎ高田商会を設立している。
 

谷中霊園 天王寺墓地

 

 

原田一道の墓

 

 幕末から明治期に活躍した兵学者・日本陸軍軍人の原田一道(はらだ いちどう/かづみち)は、文政13年8月21日(1830年10月7日)に岡山藩の支藩鴨方藩藩医の家に生まれる。
 嘉永3年(1850)、江戸で蘭学医伊東玄朴に師事。砲術など洋式兵学を修めた後、幕府に出仕し、安政3年(1856)、蕃書調所取調出役教授手伝・海陸軍兵書取調出役に就き、兵学を講じ翻訳にも従事する。
 文久3年(1863)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発ら遣仏使節団一行に随行してヨーロッパへ渡り、使節団帰朝後も留まりオランダ陸軍士官学校に学ぶ。なお、留学中、刀大小を帯びて通学し白人を驚かせたというエピソードが残されている。
 慶応3年(1867)に帰朝すると、陸軍所教授・開成所教授として洋学を教授し、西周・福澤諭吉らと共に研究にも励み、慶応4年(1868)には砲兵頭に就任する。
 海外事情に精通し、維新当時に欧州留学を検討していた西園寺公望が大村益次郎に教えを請うた際、自分より詳しいからと原田を推薦したという逸話が残されている。
 維新後は沼津兵学校教師を経て、軍務官権判事、兵学校御用掛、兵学校大教授、兵学校頭、陸軍大佐一等法制官などを歴任。
 明治6年(1873)には岩倉遣欧使節団に陸軍少将・山田顕義の随行員として参加し、フランス、オランダなど欧米各国を遊歴した。
 明治12年(1879)に陸軍省砲兵局長へ就任。同14年(1881)には陸軍少将へ進み、東京砲兵工廠長・砲兵工廠提理・砲兵会議議長等の陸軍の要職を歴任し陸軍少将となる。

 

原田男爵碑


 予備役編入後の明治19年(1886)に元老院議官に就任、同23年(1890)には貴族院議員に勅選され、錦鶏間祗候となる。
 なお、貴族院議員には鉄道利用の際、一等車両パスの特権があったが、原田は人の話が聴けるのが面白いからと、好んで三等車両に乗車していたという。
 明治33年(1900)、海外視察などで海外の兵制度を研究し、兵器・軍律刑法などの発展に寄与したとして男爵を授けられて華族に列せられる。
 明治43年(1910)12月8日、東京市神田区裏猿楽町の自邸にて逝去。享年81歳。勲一等旭日大綬章が追贈される。
 長男の原田豊吉は地質学者、次男原田直次郎は洋画家として著名、豊吉の長男、男爵原田熊雄は、西園寺公望の秘書を務め『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』を著している。

 

谷中霊園 天王寺墓地

 

【2015/4/7投稿】
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渋沢栄一

 
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渋沢栄一の墓

 
 「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一は、天保11年(1840)に埼玉県深谷市で生まれます。
 一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍に就任すると幕臣としてパリで開催された万国博覧会に幕府代表団の一人として参加します。ここで株式会社制度など様々な知識を学んだそうです。
 帰国後、大隈重信らに請われ新政府の大蔵省へ入省。国立銀行設立等に取り組みますが、大久保利通大隈重信と対立し退官、実業家へ転進します。
 実業家となってからは第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京ガス、王子製紙、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール等、様々な企業の設立に関わる一方、日本赤十字社設立等、社会活動にも力を注ぎます。
 渋沢栄一は、他の実業家と違い、財閥を形成して自らの利益を求めるのではなく公益性を重視してきました。そのため、他の財閥創始者のほとんどが男爵止まりであったのに対して、栄一は大正9年(1920)に子爵となっています。
 栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなり谷中霊園に葬られます。渋沢栄一の墓碑銘は、外務省官僚で書家としても知られた杉山三郊(令吉)によるものです。日露戦争時、旗艦三笠に掲げられたZ旗の「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」という言葉は、杉山の発案であったのに、小笠原長生が自分の発案だと東郷司令長官に上申したと言われています。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 乙11号1側
 
【2024/7/23追記】
 令和六年より新紙幣一万円の肖像画に採用されるなど注目される渋沢栄一であるが、墓所は数年にわたり整備され、令和三年に台東区史跡に指定されている。
渋沢栄一墓所入口
 
 墓所入口には、整備前からあったタブノキが、伝統的な移植工法「立曳き」で移植されているほか、ベンチが設置されるなど、人々の憩いの場となっている。
 
説明板