墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

高野家の墓(西新宿 常圓寺)

 

 薬学者の辰野高司【本名「高」(たかし)】は、大正12年(1923)にフランス文学者の辰野隆の次男として東京駒場に生まれる。祖父は建築家の辰野金吾。

 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、昭和29年(1954)に薬学博士となる。東京大学医学部助手、日本大学助教授を経て、昭和35年(1960)に東京理科大学薬学部教授へ就任。昭和37年(1962)11月からパリ大学薬学部、フランス原子力研究所に学んだ。
 昭和38年(1963)、理化学研究所主任研究員。昭和37年から40年にかけて日本薬学会の薬学研究白書の作成に参加したほか、中央薬事審議会委員、日本薬学会理事、日本薬剤師会理事、日仏薬学会会長。理化学研究所名誉研究員などを歴任している。

 

墓誌

 

 平成24年(2012)没。墓は祖父や父が眠る西新宿の常圓寺にある「高野家之墓」。墓誌を確認したところ、戒名には「薬学」の文字が使われていた。

 

 

 

辰野保の墓

 

 大日本体育協会理事などを歴任し、スポーツ振興に尽力した辰野保は、明治24年(1891)に東京市赤坂で、東京駅の設計者として知られる建築家辰野金吾の次男として生まれる。兄はフランス文学者の辰野隆である。
 旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中は陸上部で活躍し、砲丸投げとハンマー投げで当時の日本記録を樹立している。
 大正6年(1917)に東大を卒業、岩田宙造の法律事務所で実務研修を行い、翌年に独立開業する。
 また、スポーツ界とも縁が切れることなく、大正9年(1920)アントワープオリンピック(ベルギー)では役員(監督)として選手団に同行。この時、世界の競技力の高さを実感し、帰国後に欧米へ在外連絡員を置き、海外事情を研究する必要性を訴えた。
 大日本体育協会理事、大日本相撲協会理事、全日本アマチュア拳闘連盟(日本ボクシング連盟)会長を歴任し、昭和15年(1940)には、東京オリンピック招致委員会委員長として東京への大会誘致に尽力した。
 このほか、昭和8年(1933)、東京市会議員選挙で渋谷区から政友会の候補として出馬し当選、一期務めている。
 昭和13年(1938)東京目黒の自宅で死去。墓所は父・金吾、兄・隆と同じ、西新宿の常圓寺にある。

 

 

 

 「日本近代建築の父」と称される建築家の辰野金吾の長男は、フランス文学者の辰野隆(たつの ゆたか)である。
 明治21年(1888)に東京市で生まれ、赤坂中之町小学校、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学仏蘭西法学科に入学。1913年に卒業する。文豪の谷崎潤一郎とは、府立一中以来の親友であったという。
 その後、東京帝国大学文科大学仏蘭西文科に進み、慶應義塾大学、東京帝国大学、早稲田大学などで講師を務め、1921年に東京帝国大学仏文科で日本人初の助教授へ昇進。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介し、三好達治、渡辺一夫、伊吹武彦、小林秀雄など多くの人材を育成した。


辰野隆夫妻の墓

 

側面

 

 1930年、文学博士の学位を取得し、翌年に教授に昇格。1948年に東京大学を定年退官し、名誉教授となる。最終講義では、小林秀雄が「先生は理想的な教師であった」と感謝の辞を述べたという。
 辰野は、随筆家としても数多くの優れた作品を残している。また、昭和24年(1949)2月、サトウハチロー・徳川夢声と共に皇居で昭和天皇との座談会に臨み、約三ヶ月後に『文藝春秋』に、「天皇陛下大いに笑ふ」のタイトルで掲載された。これが評判を呼び、「文藝春秋」は部数を飛躍的に伸ばしたという。
 昭和39年(1964)に亡くなった際、生前に当時あまり知られていなかったアイバンクに登録しており、死後角膜が献体されている。墓所は父辰野金吾も眠る、新宿区常圓寺の辰野家の墓所にある。