時々、SNSで見かける。
「元モラハラ夫だったけれど、今は変わった」という人たちの動画。

正直、これまでの私は「人はそう簡単には変わらない」と思ってきた。だから、どこか信じられない気持ちで見ていた。
でも最近、少しだけ考えが揺らいでいる。

 

もし、妻の見方や関わり方が変わることで、夫にも変化が生まれるとしたら―それは、あり得ることなのかもしれない、と。

これまで私は、「自分は被害者で、こんな夫は見捨てて当然だ」と何度も思ってきた。
けれど、自分の思考や捉え方が変わったとき、見える景色も変わるとしたらどうだろう。

 

結局のところ、問われているのは、
自分の中に、相手への愛情がどれだけ残っているのか―その一点なのかもしれない。

ただ、今の私の場合は、それはとても難しい。
夫を「愛している」とはどうしても思えないのだ。
そもそも、これまで本当にそう思ったことがあったのかどうかさえ、自信がない。

 

夫婦の関係が、家庭の土台であるとするならば、
その土台が揺らいでいる中で、子どもたちが健やかに育っていくはずがない。
気がつけば、自分を責めてしまう日々だ。
子どもたちのことを思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 

その一方で、子どもたちも成長した今、
もう、自分に自由を許してもいいのではないか。
第二の人生を始めてもいいのではないか。

そう思う自分もいる。

 

この葛藤は、もう少し続きそうだ。

毒親育ちの私と夫は、似たような満たされなさを心に抱えている。私は幸いにもそれに気づき、少しずつ前に進めている。一方で、夫は結婚して約30年が経っても、同じ場所に留まっているように見える。満たされない心は傷ついたままで、寂しさが積み重なり、やがて怒りに変わっていった。正体の分からない不安に常に追われ、感情が荒れやすい。以前は暴力に及ぶこともあり、子どもやペットに向かうこともあった。私に対しては、心の空白を埋めるように関係を強要されたこともある。

夫には私への揺るぎない信頼がなく、私の周囲の人や動物にまで嫉妬する傾向は今も続いている。相手の気持ちや幸せに思いを向ける余裕がない。懸命に働き、愛情を示しているつもりでも、その奥には褒められたい、認められたいという欲求が隠れている。それを愛情のやり取りだと勘違いしているため、期待が満たされないと怒りが表に出る。人を愛するということが、いまだに分からないのだと思う。

なぜなのか。本当の愛情を受け取った経験がないからだろう。幼い頃、親が怖く、捨てられないよう恐怖の中で必死に生きてきた。その傷の大きさと、心にある空洞に、できるだけ早く気づいてほしい。今からでも遅くはない。私と一緒に、人を愛し、愛されるとはどういうことかを学ぼうとしてほしい。私自身も、まだ分からないことばかりだ。それでも、きっと価値のあるものだと思っている。手遅れになる前に。大切な人たちの心が取り返しのつかない状態になる前に。そして、あなた自身の心が壊れてしまう前に。

少し前、愛情不足の環境で育った子どもの特徴を扱う本を読んだ。そこには「物事を見る“心の窓”が一つしかなく、とても小さい」という指摘があった。自分を客観視しづらく、白黒思考やパニックに陥りやすいという。

 

その説明に、私自身のことはさておき、私の親、夫、そして義両親の姿が重なった。目の前の出来事でいっぱいいっぱいになり、キレたり怒鳴ったり、自分だけが正しいと言い張る──まさに“小さすぎる窓”から世界を見ている人たちだと感じた。

 

私自身も、結婚して子育てが始まってから、同じように小さな窓にしがみついていた。海外での子育て、産後うつ、そして「子どもをどう愛せばいいのかわからない」という苦しさ。気づけば、親にされたことや言われたことをそのまま繰り返していた。“自分の窓は一つしかない。しかも異常に小さい”と自覚したのは、毒親問題に取り組み始めてからだ。情けなく、子どもたちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし気づいた以上、窓を広げていくしかもはや道はないのである。

 

過去にもらえなかった愛情を追い求めることをやめ、自分の人生を受け止め、誰も責めずに前を向くと、不思議と窓は少しずつ大きくなり、数も増えていった。物事は“良いか悪いか”だけでは測れない。いろんな視点があっていい。そして、自己肯定感の低かった私だが、いつしかこんな自分でも生きていていい存在なんだと自然に思えるようになっていった。

 

最近は、母でも他人でもない、更に少し高いところから自分を眺める感覚がある。すると、不器用ながら必死に生きる自分が少し愛おしく思えてくる。同じように夫を別の窓から見ると、超たまにではあるが「かわいいところもあるかも」と感じる瞬間もある。(でも大体、翌日には元に戻るのだが…)

 

これが今のところ、私の大きな第一歩である。子どもたちのために、そして自分自身がよりよく生きるために、毒親解毒の“ゲド活”はこれからも続いていく。


私自身の毒親解毒活動(略して「ゲド活」と呼んでいる)は、決して順調に進んだわけでも、すべて完了したわけでもない。今でも自己卑下はあるし、モラハラ夫や娘を怖いと感じたり、気がつけば夫の不機嫌を自分のせいだと思い込み、取り繕おうとしてしまう自分がいたりする。「やばいやばい」と思いながら。そして、夫を許せない気持ちや、そんな夫を選んでしまった自分への後悔、さらに自分の怒りや寂しさに子どもたちを巻き込んでしまったという自責の念が、今も心の中に存在している。

 

でも、過去と比べて少しずつ前に進んでいる今、一つだけはっきりと言えることがある。それは、自分自身で「毒」を手放せるかどうかの決定的な要素は、「気づく力」と「省みる勇気」、そして「行動力」ではないかということ。まずは、気づかなければ何も始まらない。

 

「自分は大丈夫。子どもはちゃんと言うことを聞くし、おとなしくていい子だってよく言われるし、勉強もそこそこできてるし…」なんて、うっかり思い込んでいた。大馬鹿者だった。子どもは本当は寂しくて、もっと構ってほしかったのに、私を怒らせないようにおとなしくしていた。本当は友達とケンカしたとき、慰めてほしかったのに、一人で泣いて、悩んでいた。

 

私は娘に、自分が通ってきたのと同じ道を歩ませてしまっていた。本当にごめんね。

あなたがいつも幸せで、将来、笑顔の絶えない心地よい家庭を築いていけるように―母は、超特急で自分を立て直していくからね。

(つづく)

 

私と夫は、いわゆる「アダルトチルドレン(AC)」である。両親の価値観が似ていたせいか、私たちも似たような環境で育った。両家とも商店街で小さな店を営み、学校が終わると私は家に帰らず店で親の仕事が終わるのを待つ毎日。母は「どう見られているか」に過敏で、〇〇屋の〇〇ちゃんは勉強ができる、〇〇ちゃんは色白で美人だ…と、同級生との比較は日常茶飯事であった。

夫は幼いころコロコロ太っていて、当時肥満児が多いのが学校で問題となっており、特設「肥満児クラス」に入れと言われたらしい。しかし姑は「絶対ダメ」と断固拒否。夫にとっては、母が自分を守ってくれた伝説的行動であったらしいが、人目気にしいの姑の自己防衛的行動ではなかったかと疑える。

弟たちの存在もAC化のスパイスであった。「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と一夜にしてタイトルが変わり、責任を押し付けられ、弟の面倒を任される。夫の弟は痩せて顔立ちよく将来は俳優かと噂され、一方の夫は相撲取りコース。ちなみに色黒で母親に辛くあたられていた私の弟は逆に色白で可愛いらしく、母に溺愛されていた。私は羨ましさのあまりこっそり弟をいじめ、夫も同じことをしていたらしい。ちなみに夫は今でも両親から「兄ちゃん」と呼ばれ、名前で呼ばれるのを聞いたことがない。家庭内で経験済みの格差社会だが、幼い私たちにとってはあまりにも辛辣な経験だった。

 

世間体重視の親にとって、私たち長男長女は「愛されている実感ゼロで、でもきちんとして当然」の存在。叱られ、時に虐待され、大人のように振る舞うしか道がなかった。いわゆる子供として生きられなかったアダルトチルドレンなのだ。悲しいことに、夫は還暦近くになってもその事実を認めず、心の空洞にも気づいていない。

 

その空洞が、私への性的虐待や子供たちへの体罰や虐待につながることもあった。愛されたい欲求を満たせず、怖くて親にできなかったことを弱い立場の家族に向ける。いかなる理由があったにせよ、それは許される行為であるはずがない。

 

一方私は、虐待する夫に依存する妻役を演じ、「耐えることこそ美徳」と思い込み、自分を「可哀想な被害者」として称える日々。しかし、最も被害を受けていたのは子供たちであったと、ずっと後になって気づくのである。もう手遅れかもしれない。でも何とかしてこの崩れかけた家庭を建て直したい。この思いはその気づきからもたらされている。(つづく)

 

 

高校生になったばかりの息子から「うちの家族は愛情じゃなくてPower relation(力関係)だ」

と言われたことがある。毒親と化した私と夫が築いた家庭の中で、寂しさや苦しさから漏れた子供たちの呻き声だった。

 

毒親に育てられた私は、気づけば同じように育った友人たちとつながり、その流れで同じように育てられた今の夫と出会い、

叔母に「早く結婚しないとみっともない」と言われ、深く考えもせず結婚した。

 

体裁ばかり気にする母に育てられたせいで、私もまた体裁ばかり気にする親になってしまった。

娘と息子には謝っても謝りきれないほど、未熟で醜い子育てをしてきたと思う。

 

夫の暴言や暴力は年々ひどくなり、ついに「もう限界だ」と感じた私は、友達に相談したりカウンセリングを受けたりした。

夫は母とそっくりで、怒りと優しさを繰り返す人。子供への暴力は減ったが、根っこの部分は変わらない。

 

結局、その「根っこ」にあるのは私自身に染みついた毒だった。
親から受け継いだ支配を振りほどき、新しい価値観を育てなければ何も変わらない。そう気づいたのは、50を過ぎてから。

遅すぎたと思うけれど、子供たちはまだ家庭を持っていない。まだ間に合うかもしれない。

 

そういうわけで今、私は「毒親解毒作業」の真っ最中なのである。
(続く)

 

 

私は毒親育ちの自称・毒親。自分のことが大嫌い。「死んでしまいたい」「いなくなりたい」が口癖だった。

 

毒親の自分を変えたくて、まずは毒親の毒親、母の歴史をたどりながら、思い出したくない過去を少しずつ掘り起こす作業を始めた。長い間、蓋をしていた遠い記憶を掘るのは、勇気のいることだった。

 

母の殴る蹴るの体罰は日常茶飯事。中でも特に強烈だったのは、家の裏の小さな物置小屋に何時間も置き去りにされたこと。暗くて寒く、ネズミも出るような汚く冷たい場所だった。助けに来てくれるのは、いつも父か祖父。祖父もまた、母に体罰を与えていたのかもしれない。戦後の昭和時代の子育てでは、こうした光景は珍しくなかったのだろう。

 

母は毒親である前に、発達障害や人格障害を抱えていた。ヒステリーに拍車をかける高いプライドと承認欲求が、彼女の子育てを邪魔していた。「私がいつも正しい」「あんたがいつも悪い」が口癖だった。中でも私を最も傷つけたのは、容姿に対する苛立ちの言葉。

美人が多い郷土に生まれながら、私の肌は浅黒く、とても美しいとは言えない。母の決まり文句は「色の白いは七難隠す」。色の黒い私は、彼女にとって災いでしかなかったのだろう。顔を見るたび、「あー黒いで、黒いで」とため息をつかれた。

 

母の苛立ちを感じ続けた私は、幼い頃から自分を嫌いになっていった。汚い皮をまとった醜い自分。黒い皮を脱ぎ捨てられたらどんなにいいだろう―そんな願いが、いつも心の片隅にあった。強烈な自己嫌悪は、間違いなく母によって植え付けられたものだった。そしていつしか、「私は生まれてこなければよかった」と思うようになった。

 

幼稚園の頃のうっすらした記憶の中に、母が担任の先生に注意されている光景がある。私が園で笑ったり喋ったりしないのは、家庭で楽しい思いをしていないからではないかと。プライドの高い母には、痛烈な指摘だっただろう。

 

小学生の頃、クラスのアンケートに「死にたい」と書いたこともある。母に連絡がいったのを覚えている。母に傷つけられた心が悲鳴をあげていたのに、助けてくれる人は誰もいなかった。いつも母の機転で、すべては封じ込められていったのだ。(続く)

 

 

私は毒親育ちの自称・毒親。
自分のことが大嫌い。
「死んでしまいたい」「いなくなりたい」が口癖だった。

 

毒親である自分を変えようと、まず母の背景を知ることから始めた。なぜなら、母を毒親と認識して以来、激しい嫌悪感と憎しみに苦しみ、普通の母の愛を知らずに育った現実に深い寂寥感を抱えていたからだ。

だが、そうした怒りや虚しさがあったからこそ、私は母をひとりの「他人」として見つめ直すことができた。つまり、今の安定した心や幸福感は、そのえげつない感情の通過点にこそあったのだ。

母の育ちや背景を理解しようと努め、どうにもならない怒りと向き合った。その果てにたどり着いたのが、「仕方なかった」という境地。
親ガチャは大ハズレだったけれど、彼女には彼女の壮絶な人生があり、毒親にならざるを得なかった道のりがあったのだろう。そしてきっと彼女も自分のことが嫌いなはずだ。ただ、私には一抹の責任もない。そこに巻き込まれただけ。そう思えたとき、ふっと力が抜けた。

必要のない人間関係は自然に終わり、強く縛られていた承認欲求からも少しずつ解放されていく。
今、現実が静かに動きはじめているのだ――(続く)

 

私は毒親育ちの自称・毒親。自分のことが大嫌い。「死んでしまいたい」「いなくなりたい」が口癖だった。今も人間関係でつまずくと、その言葉がふと出てきてしまう。でも、以前よりはずいぶんマシになったと思う。自分を好きにはなれなくても、「自分でいるのが心地いい」「私はここにいていい」と思えるようになるのが、今の目標である。

 

私が毒親になったのは、母の影響が大きいと思っている。母は東北の小さな田舎町に生まれ、電機メーカーの支社長だった祖父のもと、裕福な家庭で育った。兄、そして妹二人のいる四人きょうだいの長女。

母の兄は家業を継ぐ期待を背負っていたものの、現実にはそのプレッシャーに押し潰されて酒浸りの生活に。祖父の期待に応えるべく奮闘したのが、母だった。猛勉強をして市内の中学や有名女子高、さらには東京の私立女子短大まで進み、母はその道のりを誇らしげに語っていた。

 

でも、私は思う。母は本当に両親に愛されていたのだろうか、と。三姉妹の中で、祖母に一番可愛がられていたのは、祖母に似た真ん中の妹だったのではないか。母はずっと寂しくて、努力しても愛され足りなかったのではないか。そう思うと、私の中にも似たような感情があって、結局それが私の娘にまで受け継がれてしまったような気がしてならないのだ。私が毒親になる原因となった毒親の私の母にもそうならざるを得なかった過去があったのではないか。そういう私の母の過去を紐解いていくことは必要不可欠な第一の作業だった。

(続く)

 

私は毒親育ちの自称毒親。毒親という言葉は好きじゃない。でも数年前に、成人した娘が涙ながらにそれを指摘してきた時、頭をハンマーで殴られた感覚に陥った。本当に「ガーン」という音が頭で鳴り響いた。私は自分の母親のようには決してなるまいと心に決めて子育てしてきたつもりだったけど、まさかこの自分が母の二の舞を踏むことになるとは夢にも思ってみなかった。ちょうどその頃息子が思春期で自分の意思を伝えようと感情的になることが増え、彼は夫と毎日のようにやり合い、夫は近所に聞こえるほどの大声をあげていた。私が毒親なら夫も然り。でも私は暴力暴言の中で育ったので、それが普通だと思っていた。妻は夫に従うべきという古いしきたりと母親からの洗脳。だから何も言い返せない。私は息子を娘を守ってあげられなかった。子供を連れて夫から逃げたかった。大嫌いだった。当時の日記には「あいつ大嫌い」の文字が幾度となく重ね綴られている。もうこの家庭は再建不可能。全部私のせいだ。この場から逃れたい。死んでしまいたい。何度も何度もそう思った。

 

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あれから5年。今、あの頃と比べたらちょっとはましになったと思う。トンネルの向こうに光が見えてきた。今、家庭の中に怒鳴り声の代わりに会話と笑顔が存在する。ここまでくるのは容易ではなかった。様々な心の葛藤の整理や自分に植え付けられた価値観と向き合う作業をしていくうちに明らかに変化を感じれるようになった。全ては私のこころ次第だった。それが何よりの学び。これから少しずつ気の向くままに自分が実際に何と向き合ってきたのかをここにシェアしていきたいと思っている( ˊ̱˂˃ˋ̱ )