私は毒親育ちの自称・毒親。自分のことが大嫌い。「死んでしまいたい」「いなくなりたい」が口癖だった。

 

毒親の自分を変えたくて、まずは毒親の毒親、母の歴史をたどりながら、思い出したくない過去を少しずつ掘り起こす作業を始めた。長い間、蓋をしていた遠い記憶を掘るのは、勇気のいることだった。

 

母の殴る蹴るの体罰は日常茶飯事。中でも特に強烈だったのは、家の裏の小さな物置小屋に何時間も置き去りにされたこと。暗くて寒く、ネズミも出るような汚く冷たい場所だった。助けに来てくれるのは、いつも父か祖父。祖父もまた、母に体罰を与えていたのかもしれない。戦後の昭和時代の子育てでは、こうした光景は珍しくなかったのだろう。

 

母は毒親である前に、発達障害や人格障害を抱えていた。ヒステリーに拍車をかける高いプライドと承認欲求が、彼女の子育てを邪魔していた。「私がいつも正しい」「あんたがいつも悪い」が口癖だった。中でも私を最も傷つけたのは、容姿に対する苛立ちの言葉。

美人が多い郷土に生まれながら、私の肌は浅黒く、とても美しいとは言えない。母の決まり文句は「色の白いは七難隠す」。色の黒い私は、彼女にとって災いでしかなかったのだろう。顔を見るたび、「あー黒いで、黒いで」とため息をつかれた。

 

母の苛立ちを感じ続けた私は、幼い頃から自分を嫌いになっていった。汚い皮をまとった醜い自分。黒い皮を脱ぎ捨てられたらどんなにいいだろう―そんな願いが、いつも心の片隅にあった。強烈な自己嫌悪は、間違いなく母によって植え付けられたものだった。そしていつしか、「私は生まれてこなければよかった」と思うようになった。

 

幼稚園の頃のうっすらした記憶の中に、母が担任の先生に注意されている光景がある。私が園で笑ったり喋ったりしないのは、家庭で楽しい思いをしていないからではないかと。プライドの高い母には、痛烈な指摘だっただろう。

 

小学生の頃、クラスのアンケートに「死にたい」と書いたこともある。母に連絡がいったのを覚えている。母に傷つけられた心が悲鳴をあげていたのに、助けてくれる人は誰もいなかった。いつも母の機転で、すべては封じ込められていったのだ。(続く)