母、旅立ちの記録-11 告別式を終えて | あなたに,も一度恋をする

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ご訪問ありがとうございます。

91歳の認知症・母の介護ブログを綴っています。

心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで

母の完全自宅介護が実現して1年半。

このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、

私の乳がん発覚で、自分の治療と

母の介護との両立のなか、

母が旅立ちました。

その記録を詳細に綴ります。

 

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この記事は以下の記事から連載になっています。

長文ですので、読んでいかれるうちに

お疲れになるかもしれません。

ご興味ある方のみ、読み進めてくださいませ。

 

             1話10話まで

 

 

 

翌日の告別式は13時半から始まりました。

この日の午前中も、司会者の方と

当日流すナレーションの打ち合わせで

多くのやり取りがありました。

 

そのやり取りを経て、

葬儀社が作ったナレーション原稿。

これによくよく目を通してみると、

私が渡した原稿と大筋は一致してるものの

細かい部分で創作が加わっていました。

 

例えば、

『美しい母をみて父が見初めて結婚した。』

これには

???

母と父は同じ小学校に通っていて、

その頃から顔見知りでもありましたが、

実際には、親が勧めた見合い結婚で、

恋愛ではありません。

ですので、見初められた結婚ではなく

事実とは違う創作です。

葬儀社はドラマティックに見せる為なのか

はたまた作った方の思い込みなのか、

そうして書き加えられた箇所が

何ヵ所もありました。

 

実は、前日の通夜に参列者の方々に

お渡しした小さなリーフレットがあり、

その中に、

『私の母は容姿も美しく…』などといった

目を覆いたくなる一文が入っていたのです。

そんな事、私、言ってない~!

 

このリーフレットは印刷される前に

「これでよろしいでしょうか?」

と見せられ、

「はい、結構です。いい内容ですね。」

と答えてしまっていたのです。

文章全体が情を誘うように、

あまりに素晴らしかったのです。

ですが、この一文に全く気付かずにいました。

通夜を終えてこれをじっくり見たとき、

『しまった…。』と思いました。

 

このリーフレットは、

母の遺体を運んだ日に、担当者から、

母はどんな人だったかの聞き取りをされ、

私がそれに口頭で答えていました。

それを元に、葬儀社の方が起こした原稿です。

その時に、

「若い時は綺麗な人だったと思います。」と

余計な事を喋ってしまったのかもしれません。

ですが、こうしたリーフレットに、

『私の母は容姿も美しく…』

などと、まさか書かれるとは思ってもみず

このこっぱずかしい文面を読んだ方は

いったいどうお感じになったか想像すると

顔から湯気が出そうでした。

 

それがあったので、

次の告別式のナレーションでは、

しっかりチェックさせて頂こうと思い、

この文章を始め、創作された箇所は

全て取り除いて頂きました。

そうして校正で差し戻し3回という、

かなり回数を重ねたやり取りの末、

事実に沿った母の生い立ちからの人生を

綴ったナレーションを

読んで頂く事が出来ました。

 

 

もし、これを読まれている方が

葬儀をなさる時は、

こうした点を、是非とも時間をかけて

しっかりチェックされる事を

お勧めしたいです。

喪主を務めると、葬儀前も葬儀中も、

あれもこれもと考える事がいっぱいで

とにかく頭が回りません。

そんな中、私のような失態がなきよう、

充分、ご注意ください。

 

こうして

母のナレーションから始まった告別式は、

昨夜のお通夜と同様に、

ご住職の読経とお焼香、

その後はご住職の説法と続きました。

そして母が好きだった曲が流れ、

母のお棺は台座からおろされました。

私と夫は、それまでホールに飾っていた、

着物をスタッフから受け取り、

夫と二人で着物を持って、

母の遺体に包みこむように、

そっとかぶせていきました。

帯と帯揚げ、帯締めは、

その上に乗せました。

 

その後、スタッフさんが、

ホールに飾っていた花々を

次々とハサミで切り取り、

お棺の中に入れてくれました。

そして参列してくださった方がお棺を囲み、

百合や蘭などの大きな花を

母の顔元や足元に置いていく。

母のお棺の中は、

あふれるほどの花で埋まりました。

 

 

参列してくれた方々が、

次々に母の亡骸に声をかけてくださる。

姉は母の頬を撫でながら嗚咽して、

「ありがとう。」を繰り返していました。

 

そして皆さんが、

それぞれにお別れの時間を持てたのを見て、

私は母のもとに行き、

母の頬に自分の頬を当てました。

その頬はとてもとても冷たかった。

その頬を私の頬で温めたくて

何秒だったでしょうか…。

長い時間だったように思います。

 

その時に、

あの日の事を思い出していました。

11か月前の、

母が最後のお正月となった元旦の0時、

その日、夫は泊まりの夜勤でおらず、

家には母と私の二人きりの寂しい年明け。

恐らくこれが母にとって

最後のお正月になると思っていた私は、

ベッドに横たわる母の頬に私の頬を寄せ、

 

「お母さん、年が明けたよ。おめでとう。

 お母さんには、私がいるからね、

 大丈夫だよ。愛してるよ。」

 

そう言いながら涙が出て、

除夜の鐘を聞いていたあの日の事を

思い出してしまうのでした。

あの日の母の頬は温かだったと。

 

 

葬儀は14時半に出棺。

ご参列者の方とお別れをし、

母のお棺を乗せた霊柩車に、

位牌を持って乗り込みました。

そして親族は後続のバスとともに、

火葬場に向かいました。

 

火葬場に行き、母のお棺が炉に入れられる。

そして数時間後に、炉から出てきた遺骨。

その遺骨を拾って骨壺に入れながら、

こみあげる感情もなく、

それらのお骨が、私には

ただの物体にしか思えなかったのです。

 

 

愛犬が亡くなった時は、

焼いたお骨は愛しく、

まるで骨壺の中に

愛犬が宿っているかのように思え、

私は1年間、骨壺を抱いて寝ていました。

その期間、私は愛犬を失った哀しみで

涙が出ない日がないほどだったのに、

なぜか母のお骨も骨壺も、

マテリアルなものでしかなく、

何の感情も湧いてこない。

そんな自分が不思議でした。

 

母の死去後、母に対して、

こうしてあげればよかった、

ああしてあげればよかったいう、

やり残しの後悔というのは

全くありませんでした。

同時に、やれるだけやったという

気持ちはあっても、

そこに達成感や清々しさを

感じる事もありません。

ただ、娘の自分が万が一先に亡くなって

母を取り残してしまうような、

そんな最悪の悲劇にならなかった事に

ほっと肩を撫でおろしたという感覚でした。

 

古い廃墟が崩れてしまうように、

花が枯れて無くなってしまうように、

母は老い、そして消えてしまった。

 

精進揚げで母の霊前に用意した、

鰻のお重を、母が食べるわけはなく、

骨壺の中のお骨に

母の意識があるわけでもなく、

そして入魂した白木の位牌に、

母の魂が宿っているわけでもない。

 

私はほんの数日前まで母と会話をしてた。

握った母の手はいつも温かだった。

車椅子に乗せてながめる、

母の後ろ髪が好きだった。

そして母の笑顔を見るのが、

介護の日々の癒しだった。

その母は、消えて居なくなった。

ただそれだけの事実…。

その事実を確かなものと受け止めつつ、

 

『でもさよならは言わない。

さよならなんて言えない。

ただ時間が止まっただけ…。

ねぇ…お母さん…。』

 

そう心の中で

繰り返していたように思います。

 

 

このあと、親族一同が

再びバスで葬儀会場へ戻り、

初七日の式を終えたあと、葬儀は終了し、

親族はそれぞれの家に帰っていきました。

時刻は21時を超えていました。

 

そしてここから、身体をおしながら、

私がやらねばならない事は

まだ山ほど残っていたのです。

 

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追記

今日も長文におつきあい頂きまして

ありがとうございました。

この日のあと、死亡における各種手続きや

相続に関する手続き、納骨の準備などに

追われる日が続きました。

これらの事も次の記事で記していきたいと思っています。