母、旅立ちの記録-1 母死亡 | あなたに,も一度恋をする

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ご訪問ありがとうございます。

91歳の認知症・母の介護ブログを綴っています。

心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで

母の完全自宅介護が実現して1年半。

このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、

私の乳がん発覚で、自分の治療と

母の介護との両立のなか、

母が旅立ちました。

その記録を詳細に綴ります。

 

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昨年の2023年11月11日の夜21時45分

母はショートスティ先の施設で

息を引き取りました。

外部の施設は使うまいと誓って1年半。

自宅での24時間介護を続けていましたが、

あれほど避けていたショートスティを

利用せざるを得なくなったのは、

私の乳がん治療が始まったからでした。

 

当初、

母の自宅介護にこだわっていた私は、

抗がん剤中も姉に手伝いに来てもらう事で

何とかしのげると甘くみていたのです。

ですが9月下旬に、

初回の化学療法を受けたその日から、

死ぬほど苦しい2週間を過ごす事になりました。
(『安楽死』を検索するほど、辛かった)

 

初日から起きた脱水症状。

恐らく初回に倍量入れられる、

分子標的薬によるものと思われますが、

母の介護の全てを姉に頼み、

全く起き上がれない状態。

そして抗がん剤翌々日に打つ、

白血球をあげるジーラスタ注射。

これを打ったあとに起きる

関節の痛みはハンパなく

鎮痛剤なしではいられないほど。

姉が7泊8日で帰った後、

母の介護を1人で行うなか、

突然襲った腰の激痛。

まともに母のトイレ介助が出来ない。

その時に介護との両立は無理だと痛感しました。

 

そんなわけで、

抗がん剤を甘く見ていた自分を猛省し、

治療中の母の自宅介護は

外部施設を使わない限り、

無理だと諦めました。

そして抗がん剤2回目からは、

1クール(3週間毎)につき10日間を、

ショートスティで見て頂ける特養利用を

ケアマネにお願いしたのです。
(前半10日間特養+後半7日間は姉滞在に頼る)

全ての期間をロングショートで

めいっぱい使わなかったのは、

母のせん妄を防ぐためと、

ある懸念があったからでした。

 

利用した施設は

過去の怠慢施設とは違い、

若い介護士さんが一生懸命働いてくれる

温かい特養施設でした。

 

母が亡くなった日は、

11月に入った受けた3回目の抗がん剤の

2日目の夜でした。

夜の21時過ぎに自宅に電話が鳴り、

受話器を取ると、

切羽詰まった介護士さんの声。

あ。。。。

尋常じゃない事態である事は、

震える声から伝わってきました。

 

「今、巡回に、

お母さんのお部屋に行ったところ、

お母さん、呼吸がおかしくて、

それで預けてもらっていた

ポケット人工呼吸器で

蘇生してみたんですけれど、

息が…。

もうお亡くなりになってるかもしれません。

あの、あの、

救急車をお呼びしてもいいですか!」

 

「いや、救急車呼ぶの、待ってください。

今すぐ、夫とそちらに行きますから。

ご無理言いますが、

救急車は私達が行くまで呼ばないで下さい。

10分もあれば到着しますので!」

 

そう言って電話を切り、

急いで夫とともに車に乗り込んで

施設に向かいました。

そして到着した施設の玄関を開けてもらい、

誘導する夜間当直の介護士さんの

後を走って母のいる個室に入った時、

母はそこで目を閉じたまま、

ベッドに仰向けになっていました。

夫は急いで母にかけより、

「まだ手が温かいよ。」と言いましたが、

亡くなっていると一瞬で悟りました。

 

人工蘇生の訓練を定期的に受けてる夫は、

まだ大丈夫だと言い、

施設に預けておいたポケット人口呼吸器で

口からの蘇生を試みましたが、

呼吸器具に全く反応がみられない。

気道が硬直しているから動かないのです。

「だめだよ。もうお母さん亡くなってる。」

そう言って、私は夫を制止しました。

母の顔は苦しんだ表情はなく、

口は少し開いてはいるものの、

いつもの寝顔、そのものでした。

 

※ポケット人口呼吸器は直接口と口が接触せず、

施す側の空気のみ入るため、処置する側に

何らかの感染が起きる事のない器具)

 

施設にはご無理を言って

救急車を呼ぶ事を制止し、

自分達が現場に駆けつけたのは、

高齢者の母が、もし息のある状態で

救急隊員に心臓マッサージを施されたら、

母の肋骨はボキボキに折れ、

たとえ蘇生出来ても、

その後は地獄の痛みが待ってる。

時には折れた肋骨が、

肺に突き刺さる事だってある。

高齢者の心肺蘇生が、残された時間を

かえって苦しみの時間に変えてしまう事を、

私は母の担当の整形外科部長から

詳細に説明された事があったからでした。

 

母もアルツハイマー認知症ながら、

要点要点の判断は出来たため、

予後の苦しみを受けて迄

長生きはしたくないという意向があり、

その願いを私が書面に起こし、

医師や救命救急の方に向けて

心臓マッサージ拒否の文面を

施設入所時に預けていたのです。

 

そして、万が一、

施設側が救急車を呼ぶ事になっても
(大抵の施設は医師が常駐していない限り、

救急車を呼ぶ事がルール化されている)

施設の方から

私の託した書類を救急隊員に渡して頂き

心臓マッサージを回避して

病院まで搬送して頂けるように

お願いしていました。

 

話は飛ぶのですが、

10月に

私が抗がん剤2回目を受けた初日の夜、

母はこの施設でてんかんを起こしています。

舌の付け根が気道をふさぐ舌下による

呼吸困難です。

幸いこの時は、

介護士さんに預けておいた

ポケット人口呼吸器で

母の気道は確保され、

私達夫婦が駆け付けた時には、

危機を脱していました。

その後、念の為にと、

施設側の要望で救急車を呼び、

(私も乗り込んで)

病院に搬送して検査をしてもらった事があります。

その時の搬送では、

すでに酸素飽和度が

90以上に戻っていたため、

隊員の方の蘇生はなく、

酸素吸入のみの搬送ですみました。

 

病院に到着した際、

救命センターの医師から

今回の低酸素状態に陥ったのは、

ご持病の高齢者てんかんの

強直からでしょうと言われ、

今後も施設でのショートを

利用されるのなら、

やはり抗てんかん薬の服用は

した方がよいと助言され、

同病院内の神経内科への

院内紹介状を頂きました。

その紹介状をもって、

後日、ヘルパーさん同行のもと、

神経内科専門の医師に

母を診ていただきました。

そこから抗てんかん薬の服用が始まりました。

この時受けた精密検査で、

「(母の)後頭部にある多くの血管のほとんどが

動脈硬化だらけですよ。」という、

ショッキングな診断を受けていたのです。

(そして今回の死因は、

この後頭部の脳内出血だと検死で判明)

 

話を戻します。

今回、夫と施設に駆けつけた時、

母は既に死亡していると思った私は、

周囲の責任が問われない事を優先し

消防隊員の方の心臓マッサージの措置は、

おまかせしました。

たとえそれで肋骨が折れても

母はもう亡くなっていて、

痛みを感じませんから。

 

(救急隊員の方は、

呼ばれた限りは蘇生をしないと

たとえ本人の意思の同意書があったとしても、

後で難しい状況に立たされる事もある事を考えての事。

心肺蘇生の心臓マッサージを

拒否する同意書については、

実際のところ、

消防隊員各個人によって見解が異なっていた。

1回目の搬送時の隊員の方からは、

それでは我々は職務を遂行していない事になるので

心臓マッサージをしないわけにはいかないと言われ、

今回の搬送時の隊員の方からは、

搬送後にお聞きしたところ、

ご本人の同意書があれば、

我々は患者さんの意思を尊重して

そのように出来るんですと言われた。

これに関しては非常に微妙な点ではある。)

 

そうして母の遺体は、

心臓マッサージを施されながら、

担架で救急車に乗せられ、

同乗した私とともに、

救命センターに搬送されました。
(夫にはマイカーに乗ってもらい、

救急車の後をついてきてもらった。)

 

病院に到着し、

しばらく待たされた後、

処置室へ通され、

医師から母の死亡を伝えられました。

その後、私は待合室に移動し、

消防隊員からの再度の聞き取りを

受けました。

その後に到着した警察官からも、

同様の事情聴取を受けました。

母の死亡時刻は不明ですが、

施設介護士が母の異常を発見した時刻の

午後21時45分となりました。

 

救急隊員の方も、警察の方も、病院の方も、

どの方からも

励ましなどの言葉はないものの、

喋り方やまなざしから、

待合いにいる遺族の私に、

同情と優しさを注いで下さっているのが

ひしひしと伝わってきました。

 

母が看護師さんから

エンゼルケアを受けている時間、

待合いでは、もう1組、

ご高齢のお母様を亡くされた方がいました。

関係者へ電話で連絡されている50代と思われる息子さん。

しっかりした口調で、

とても冷静だった。

 

そして私もまた冷静だった。

声の震えや涙も出る事なく、

『亡くなった…。

ついにこの日が来てしまった。』

ただその事実だけを

受け止めていたように思います。

ずっと自宅で見続けていたから、

母の体力は段階的に落ちていた事を感じてる。

命の灯がいつ消えてもおかしくないような…。 

 

そして、なぜか自分は、

母は自宅では亡くならず、

預けた外泊先で亡くなってしまうという

確信的な予感がありました。

『施設に預ければ、そこで母は亡くなる。

だから外に預けたくないんだ。』

それをずっと夫に言い続けていました。

けれども、自分の治療があるから、

外部施設のお力を借りずには乗り切れない。

母がもし、そうなればなったで、

それも私達の運命なのだと

覚悟していたように思います。

そして、現実、そうなった。

 

時間は過ぎ、

病院の待合室で23時を過ぎる頃、

電波が悪く繋がらなかった姉への電話が

ようやく繋がり、母の死亡を伝えました。

 

そして私は、

ここからしなければならない事が

頭の中のノートに

キーボードで打つように、

めまぐるしく記されていくようでした。

これからやらなければならない事が山積みだ。

母を見送る大きな仕事が待っている…。

泣いてる暇などなかったのです。

 

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介護記録ではありませんが、

高齢者のご家族がお亡くなりになった際の

何等かのご参考になれればと

これから続きを綴っていきます。

今日も長い文章にお付き合い頂きまして

ありがとうございました。

 

母が最期に過ごした特養のユニット個室

(施設内の同タイプの部屋・著者撮影)