ご訪問ありがとうございます。
91歳の認知症・母の介護ブログを綴っています。
心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで
母の完全自宅介護が実現して1年半。
このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、
私の乳がん発覚で、自分の治療と
母の介護との両立のなか、
母が旅立ちました。
その記録を詳細に綴ります。
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前記事の続きです。
母の遺体が救急車で搬送された
救命センターの待合室で、
警察官の方から
今後の手順を説明されました。
「お母さんのご遺体ですが、
今から警察署に搬送させて頂きます。
運ばれる警察署は
娘さんのご住所の西区警察署ではなく、
亡くなった施設の住所を管轄する、
中区の警察署になります。
娘さんと施設から伺ったお話からは
事件性はないと判断しておりますが、
死因の特定はしなければならないので、
検死を行います。
この点をご了承頂けますか?
お母さまのご遺体ですが、
運ばれた中警察署に、
明日の朝9時一番に
引き取りに行って頂きたいんです。」
との事でした。
「わかりました。伺います。」
「その時に医師に支払う
検死代金の3万円も
ご持参頂きたいんです。」
「わかりました。お持ちします。」
「では我々はこれで失礼致します。
お母さまのご冥福をお祈り致します。」
そう言って、出口へ向かわれました。
夫と私は立ち上がり、
「ありがとうございました。」
と一礼しました。
一人の人間死に、
多くの方を関わらせてしまっている現実を
知った日でした。
その後すぐに施設の特養に電話を入れ、
一連の流れが終わった事、
そちらには警察の現場検証が入らない事と、
短い間でしたがお世話になったお礼を述べ、
明日の昼に母の荷物を引き取りに行くので
それ迄に荷物をまとめておいて頂く事を
お願いしました。
夫とともに家に帰ったのは
夜中0時過ぎだったと思います。
一番に連絡したのは葬儀社のS社。
母は生前、自分の葬儀は
この会社に頼んで欲しいと言うので
私名義で会員になっていました。
ここは叔父の葬儀でも使いましたが、
殆どの事を流れるように進めてくれる、
キメ細やかな葬儀社です。
葬儀会社は真夜中でも連絡可能ですから、
電話をかけて会員名と会員番号を伝え、
母の葬儀をお願いしました。
そこで私達の希望する2日後に、
お願いしたいホールが抑えられるかを確認。
一旦、電話を切って連絡を待つ事に。
その後、
空きの確認がとれたというお返事あり。
この時点で、母の葬儀日程と会館を
仮押さえする事が出来たものの、
お骨の焼き場と、お寺の問題があります。
この点は夜中ゆえに連絡が取れないため、
夜が明けてから確認する事になりました。
そして、葬儀社には朝9時の遺体引き取りに
警察署に来て頂く手配をお願いしました。
先方は葬儀担当者が乗った車と、
遺体を運ぶための寝台車の2台で向かいます
との事でした。
(この時、初めて葬儀社の寝台車(霊柩車)が
遺体の運搬以外の用途で人を乗せてはならない事を知る。)
そして、
「一旦、ご遺体を自宅に戻されますか?
それとも直接会館内にある、ご安置所に
ご搬送なさいますか?」
と聞かれましたが、
自宅では遺体を寝かせる場所がないため
直接会館の安置所に直行して頂く事を依頼。
代わりに葬儀社からのご提案で、
母の遺体を乗せた寝台車は
自宅と、母の散歩コースだった道を一周して
会館に向かってもらう事になりました。
このやりとりを終えたのが午前2時頃。
そこから、介護のレンタルでお世話になった
Dレンタル会社さんへFAXを流す。
A4用紙に母の死亡を書き、
レンタル中の介護用ベッドと車椅子2台
その他もろもろ一式を、至急、
引き取りに来て頂く事をお願いしました。
(有難い事に、
この翌日の午前中に即効で引き取りに来て下さいました。
おかげで姉夫婦が泊まる部屋が出来ました。
レンタル業者の緊急対応の大変さをここで感じた。)
そして夫婦で朝7時まで就寝。
朝の9時に指定された警察署へ向かいました。
署のドアをくぐって受付で名前を伝えると
「こちらへどうぞ。」と
ロビーにあったソファに誘導され、
渡された書面に必要事項を書きました。
そして母の『死体検案書』を頂きました。
この検案書は、役所へ提出する他、
焼き場や年金手続き、相続手続き等、
必ず必要な重要書類。
絶対に紛失出来ない書類です。
その書類のコピーは、希望する部数分、
警察署で頂けます。
そして頂いた種類に記されていた母の死因は
『脳出血』
出血部分は、以前、
神経内科の医師が指摘していた、
動脈硬化だらけと言われた後頭部の血管でした。
警察官の方が言う。
「こちらでは医師の方にお願いして
死因を調べてもらうのが手順でして。
お母さま、一見、老衰とも思えそうですが
調べてみると大抵は、
心臓か脳かのどちらかが原因なんです。
お母さまの場合は、
眼球の瞳孔が左右非対称で、
右の瞳孔が左よりも開いてた。
そこで、脳が疑わしいと判断して、
解剖医の先生が後頭部に
注射針を刺してます。
吸い取った髄液を検査したところ、
脳出血の痕跡がみられたとの事です。
ですので、お母さまの死因は、
脳出血になります。」
これを聞いて、
高齢者てんかんによる発作でなかった事、
発症からわずか短時間で永眠した事を知る。
だから母は舌を噛んでなかったんだ。
苦しい顔をしてなかったんだ。
母の安らいだ”死に顔”が浮かぶ…。
そして警察署が医師への依頼した、
検死代金の3万円をお支払いし、
領収書を受け取りました。
(訪問医であれば、殆どが警察の介入がないので、
『死体検案書』ではなく『死亡診断書』となり、
医師に支払う価格は1万5千円)
そして駐車場で待機してくれていた、
葬儀社の人達が署内に入り、
担架で母の遺体を
寝台車に移動させました。
その時、署内にいらした警官の方が皆、
ドアの前まで出てきて並ばれ、
母の遺体に一礼してくださった。
この時、胸がじ~んと熱くなった事を
今でも覚えています。
葬儀社の方から、
「家族さん、寝台車に一緒に乗って下さい。」
と促され、
母と私を乗せた車は出発しました。
家の近くに来ると、運転手さんが、
「お家、このあたりですね。
ゆっくり走りますね。」
と言ってスピードを緩め、
家の前に着くと停止してくれた。
「お気持ちが落ち着くまで停まっています。」
と運転手さん。
すると、ここに来て、
今まで出る事のなかった涙が込み上げてくる。
「お母さん、家だよ。帰ってきたよ…。」
聞こえてなんていないだろうと思いつつ
ハンカチで涙をぬぐいながら、
母に語りかける。
「出発して良いようになったら、
お声かけてください。」
運転手さんの優しい心遣いが伝わってくる。
「もう出発してくださって結構です。
ありがとうございます。
お母さん、行くよ。」
そう言うと、
車は別れのクラクションを鳴らして、
走り出した。
「想い出のある散歩道は、この辺りですか?」
「はい。そこを進んで左に回ると池があります。
池を一周していただけますか?
そこが想い出の道です。」
ゆっくり走る車。
この池の道は、
春になると桜が咲き、見事な景観になる。
まだ母が歩けた時に、
二人で花見しながら歩いた道。
「ねぇ、お母さん、ホーホケキョが聞こえる?」と聞くと、
「鳴いてるの?聞こえないわ。残念だわ。」
そんな会話をしたね。
特養で転んであざだらけになった母の顔を
幾度もファンデーションで重ねづけして
車椅子に乗せて歩いた道。
この道を歩きながら、
あんなひどい施設には、
もう二度と戻すまいと誓った道。
霊柩車の後ろには、私達の後を車で追う夫。
夫は運転しながら、この時、
胸が詰まる思いだったと後で語った。
そうして到着した葬儀会館。
S社には幾つもホールはありましたが、
「お母さんが亡くなったら、
この会館にするね。」
と伝えていたホール。
いつか来る日のために、
このホールの説明会にも訪れていました。
1日1組しか使えない貸し切りの会館。
この町は父の職場があった町。
父と母が12年間住んだ町。
到着してすぐに
電話で持参をお願いされていた、
着物型の寝間着をお渡しした。
新品のガーゼの着物。
着物の寝間着なんてもう着ない、、、と、
一時は断捨離するつもりでしたが、
とっておいて良かった。
母は今から身体を拭いてもらい、
搬送時に着ていたパジャマから
着替えさせてもらう。
それからもう一度、
通夜前に正式な湯灌を施して、
旅立ちの着物に着替える。
通された会館のリビングで、
コーヒーを頂きながら待機していると、
担当者がやってきて、名刺を頂いた。
物腰の柔らかな50代の女性社員さんだった。
そこで明後日から始まる式の
綿密な打ち合わせが始まるのでした。
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今日も長い文章にお付き合い頂きまして
ありがとうございました。
介護記録ではありませんが、
高齢者のご家族がお亡くなりになった際の
何等かのご参考になれればと
これから続きを綴っていきます。