母、旅立ちの記録-9 家族とは… | あなたに,も一度恋をする

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ご訪問ありがとうございます。

91歳の認知症・母の介護ブログを綴っています。

心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで

母の完全自宅介護が実現して1年半。

このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、

私の乳がん発覚で、自分の治療と

母の介護との両立のなか、

母が旅立ちました。

その記録を詳細に綴ります。

 

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この記事は以下の記事から連載になっています。

長文ですので、読んでいかれるうちに

お疲れになるかもしれません。

ご興味ある方のみ、読み進めてくださいませ。

 

                 1話8話まで

 

 

葬儀の連載の途中ですが、

ちょっと話がはずれます。

 

むかしむかし、

母がまだ20代の頃、

むちゃくちゃ当たると

評判の占い師さんがいました。

その噂を聞いて、母は一番上の姉と

見てもらいに行った事があったそうです。

 

母の姉が占い師さんから言われたのは、

「あなた、

結婚してもすぐに別れる運命にある。」

と言われ、実際そうなりました。

 

そして母が占い師から言われたのは、

「あなたは結婚した旦那さんを

早くに亡くして未亡人になるわね。

でもあなたの晩年は幸せだわぁ〜。」と。

 

この事を、母はすっかり忘れていたけれど、

隣に住んでいた母の妹の叔母が

私に教えてくれて知ったエピソードでした。

 

実際に母は58歳で夫を亡くしましたが、

その後33年間、友人に恵まれ、

多くの趣味や習い事や旅行など、

自分の楽しみを見つけて

活発に過ごしていました。

母が亡くなった場所が

自宅でなかった事は残念な事でしたが

占い師が言ったように、

母の老後は介護期間を含め、

幸せな晩年であったと思います。

 

最後の数年間、

母と最も深く関わって下さったのは、

何を置いても、訪問ヘルパーの方々でした。

 

このヘルパーの所属事務所は、

ある偶然で繋がる事が出来たのですが、

その偶然もまた、

母が呼び込んだ強運だったと

思っています。

他の事務所さんであったなら、

私は自宅で介護をする自信がもてず、

別のロングショート施設を探し、

自宅介護は実現出来てなかったと思います。

 

 

お世話になった在宅介護事務所の

女性所長さんには、

それまで母が2年半過ごした特養を

引き上げた経緯をお伝えしていましたし、

介護者が娘の私一人という事情を組んで、

可能な限り、こちらの希望を

叶えてあげようと奮闘して下さる、

情の厚い方でした。

 

週5日、1回2時間の身体介護のプランに

所長さんが母に派遣して下さったのは、

事務所の中でも、とびきり凄腕の

3名のヘルパーさん達でした。

 

お世話頂いたヘルパーの方々は

どの方も聡明で、

母への接し方が優しく、

声掛けをずっとし続けて下さる方でした。

シャワー入浴後の空いた時間には

折り紙の本を見ながら母に折って下さったり、

時には私のCDを使って童謡も歌って下さる。

そんなキメ細やかな事まで取り入れて、

その心配りに、

私は安心して母をまかせる事が出来ました。

 

また、こうした身体介護だけでなく、

病院通院での同行もお願い出来ましたし、

やむをえない私の長時間の外出日には、

時間延長(これは全額自費払い)も

お願いして、

母をみていただく事もありました。

 

このお三人の中に、

102歳のお母様を

自宅介護しているヘルパーさんがいて、

その方から、実にさまざまなお知恵を

頂戴しました。

 

・椅子からの立ち上がり方のコツ、

・転倒した時の起こし方、

・リハパンやパットの種類、

・高カロリー食品のメイバランスの事、

・嚥下をふせぐためのとろみ食品の事、

・車椅子の種類など。

・足湯にバブを入れると全身が温まる事

それまで私の知らなかった事ばかりで、

どんなに役立った事か言い尽くせません。 

 

この方がさらに

ケアマネの資格もあった事から、

私が介護保険における疑問だった事も、

細やかに教えてくださいました。

 

そしてご自身でご家族を

介護をなさっていただけに、

私の気持ちを、痛いほど

分かってくれている事が、

ひしひしと伝わってくる。

その方から、

慰めやお褒めの言葉を頂く度に、

私は何だか嬉しくなって

『もうちょっと頑張れそう…。』

と思えたものです。

 

この方3名の介護チームは皆さん仲が良く、

常に申し送りがなされていましたし、

サービス責任者のヘルパーリーダーさんの

的確で迅速な対応も素晴らしかったです。

 

 

母はそんな素晴らしい事務所と、

ヘルパーさんに恵まれ、

最後の数年を過ごしていました。

そのおかげで、

在宅介護に切り替えた当初、

あれほど私を悩ませていた、

母の『ここはどこ?』『家に帰る』

という症状は激減していきました。

 

ここで家族の話を少し…。

 

私には同居する夫がいますが、

過去に悪性リンパ腫を患った事もあり、

その時の抗がん剤の副作用が原因で、

現在、心臓に深刻な持病を抱えています。

そんな状態で外で働きに出ている夫に、

母の介護のヘルプは到底頼めませんから、

日々の介護を助けてもらう事は出来ません。

 

そして私には姉がいますが、

私のように同居している身と、

別居で母抜き生活を日々送ってきた姉とは

母に対する意識は大きく違います。

(愛情は同じでも、意識が違う。)

 

今から5年前に、

圧迫骨折で母が2か月の入院をした時も

見舞いに来ないだけでなく、

ただの一度も母を心配するLINEが

送られてきた事がなく、

それ自体が私にはショックな事でした。

 

姉から母の日に贈り物があったのは、

私の知る限り、一度だけで、

母の日も母の誕生日にも、

電話さえかけてこないのが、私の姉なのです。

ドライな性格といえば、それまでですが。

 

母90歳を超えた時に、姉に

「死期は近づいてると思う。」と

伝えていましたが、

母の最後となった大晦日も、

日本人として1年で1番

大切な日とされてる元旦の日にも、

姉は母に電話1本、

かけてくる事はありませんでした。

連絡が来たのは、それをとうに過ぎた、

翌月の2月半ばでした。

こちらから何ヶ月も連絡を断っていると

いつも放置される。

そんな事が過去何度もありました。

自分から電話をかけた事で、

介護の手伝いに行くのを

避けたかったのだろうと思います。

 

姉の話を夫にすると、

「よくやってくれてるよ。

遠いところから、

来てくれるのは大変なんだから。」

と言っていましたが…。

 

5年前の母が圧迫骨折で入院した時も

私は毎日欠かさず夕方、

病院に通っていましたし、

ロングショートで特養に入った時も、

2日に一度、顔見せに行ってました。

(就寝前の着替えも兼ねて)

その時使っていた特養は、

母の着替えは靴下以外はみな持ち帰って

洗濯をしなければならず、

帰宅時には、病院や歯医者や皮膚科と

通院させていましたから、

ロングショートで預かってもらっても

する事は沢山あったのです。

 

そして自宅介護に切り替えた当初は、

母のせん妄がひどく、

帰宅願望に家を出ようとする母を

見守りカメラを活用しつつ、

昼夜連続で見守りました。 

母が歩けなくなってからは、

ようやく眠れるようになりましたが、

1年365日、週休0日で母を世話します。

 

私は思うんです。

共に暮らし、

共に老いていく環境でない限り、

ほとんどの子供は、どこかで自分は

部外者だという意識をもって

親の事を”頭からはずせる術”を

身に着けてしまうのだと。

自分には自分の家族があるのですから、

それでいいのです。

 

もちろん、そうでない人も知っています。

別居しても、遠距離ながらも、

毎週土日に通って

お世話をされている方もいます。

でも、介護と言うのは往々にして

責任感の強い一人の人間が、

そのほとんどを

担うようになってしまうと思うのです。

 

アメブロの介護ジャンルで、

常に1位をとっていらっしゃる、

有名ブロガーさんが、ある時

「介護の敵は孤独だ!」

と書かれた記事がありましたが、

まったくその通りだと思いました。

 

どんなに応援を受けても、

同居している家族の介護の量は莫大です。

月の幾日かを手伝いにきてもらっても、

してもらえる事は、同居家族に比べれば

比較にならないほど僅かな量です。

介護責任を負った人の重圧は、

介護を担った人にしかわからない。

その介護者は、

自分の理解者がいない現実に気づき、

たった一人で戦っている錯覚に陥り、

やがて孤独に苛まれた世界に囲われてしまう。

 

 

私は姉から、

「いつもありがとう。」

「あなたのおかげよ。」

そんな言葉が欲しかった。

そしてそれを積極的に行動で示してほしかった。

 

そして、ただ母に会いに来てるだけで、

ろくに母と会話もせず、

隣でスマホのyou tubeを

ひたすら眺めてる姉ではなく、

「今日は夕食を私が作るね。」と言って、

私の身体を休ませてほしかった。

母を会話で喜ばせてほしかった。

物は覚えられなくても、

瞬間瞬間の会話が出来る母なのだから。

姉を自宅に呼んでいたのは、

姉が来て喜ぶ母の笑顔を

私が見たかったからなのだから。

 

そしてもっともっと、

母の事に関心をもって欲しかった。

認知症の事を勉強してほしかった。

本やネットから知るだけでも、

自分が出来る事がもっとある事を

知ってほしかった。

家族の負担を知ってほしかった。

 

そしてそうした姉に代わって

してくれたのが、3名のヘルパーさん達でした。

 

たとえ1日2時間でも、

母を共にお世話してくれる、

心強い味方と思えたヘルパーさん。

その2時間には、たくさんのものが

凝縮していた。

何かがあったら、

スケジュールさえあえば、

助けてもらえる存在がいると思えただけで、

自宅介護は続けていけると思えたのです。

 

時には私の趣味のケーキの

味見をしてもらったり、

洋菓子店の新しいお菓子の話で

私と盛り上がったり、

わずかでも生まれる隙間時間は、

私に忘れていた笑顔が戻る時間でした。

 

そうしてこのヘルパーさんとの交流で、

私の心にぽっかり空いてしまう、

孤独という心の隙間が、

ヘルパーさんが来ている時間だけは、

満たされていた思います。

 

このヘルパーさん達と、

お世話になった所属事務所の所長さまが

母のお通夜に来て下さった事は、

私にとっても、母にとっても、

何より嬉しい事でした。

 

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追記

今日も長文におつきあい頂きまして

ありがとうございました。

何かのご参考になれれば幸いです。

この続きは、次の記事で。